加賀「松任城」にて織田軍の隙を伺う上杉謙信

「柴田勝家」率いる織田軍が、手取川を渡り始めると同時に、七尾城を落とした上杉謙信も、電光石火の如く南下を始めた。
手取川を渡った織田軍を迎え撃つためである。
南下した謙信は、加賀の松任城に入った。
松任城は、鏑木氏の居城で手取川の北に位置し、現在のJR松任駅前「松任城址公園」(旧「おかりや公園」)に位置する。
松任城の石垣が、雨に叩きつけられる。
謙信が松任城に入っても、織田軍は動かない。
その間に謙信は、松任城主「鏑木頼信」から手取川の情報を収集していた。
家臣達が出撃を願ったが、謙信は何かを待っていた。
「柴田め、動きませぬな・・・」
謙信には、自信があった。
「いや、必ず動く」
〈川を背に動かぬ訳がない〉
そして、雨がさらに強くなった時であった。
「親方様!織田軍、夜陰にまぎれ手取川を南に撤収を始めました」
織田軍は、七尾城救援に間に合わず、上杉本隊との衝突を避けるため密かに軍を返したのであった。
謙信はこの時を待っていた。
〈やはり我が軍との衝突を避けたか・・〉
「この長雨じゃあ、追え」
精強な上杉騎馬隊が、織田軍を追い始めたのは深夜のことであった。

松任城跡

松任城址公園(旧・おかりや公園)と鏑木氏

松任城は、戦国期には、鏑木氏の居城として歴史に登場する。
平安末期に松任氏の館があったことが「松任城」の名前の由来である。
昭和43年の開設時「おかりや公園」という名称であったが、現在は、「松任城址公園」と名称変更された。
JR松任駅前の平地に、「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」そして「出丸」まで備えいたのは、驚きである。
手取川の戦い直前には、上杉謙信の大軍にも落城しなかったとされ、謙信は、当時の松任城主「鏑木頼信」と和睦に至り何とか傘下に収めたと伝えられる。
手取川の戦い後は、上杉軍が越後へ引き上げた後に、柴田勝家により落城。
徳山則秀が城代となり、さらに、前田利長など前田家と続く。

小松戦国物語の第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣では、小松に向かう前田利長率いる前田軍は、金沢出立後、松任に入った。

松任城址公園(旧・おかりや公園)

手取川戦国物語探訪★第四章・織田軍大敗!名取川のように~はねる謙信、「手取川の戦い」における謙信の恐るべし戦術


2件のコメント

二曲城と大日川から見る白山麓門徒王国 · 2023年1月14日 12:02 AM

[…] 二曲城跡(現在の白山市出合町)は、鳥越城(とりごえじょう)とともに加賀一向一揆国の将「鈴木出羽守」(すずきでわのかみ)の拠点として双璧をなした山城である。築城年は、鈴木氏の屋敷と連動していたことから、鳥越城の強化改築より早く存在していたものと思われる。鳥越城と同じく、国指定史跡である二曲城(ふとげじょう)の歴史的価値は高く、堀も備えていた。大日川を挟み鳥越城と二曲城、そして鶴来「舟岡城」が連絡を取り防御を固めていた。加賀「松任城」から手取川を遡るように鶴来の舟岡城、二曲城を突破するとようやく、鳥越城に辿り着く。鳥越城と同じく織田信長の北陸侵攻軍の総大将「柴田勝家」により落城するも、鈴木出羽守を失った門徒の山内衆が再び奪取。その翌年、勝家の配下「佐久間盛政」により白山門徒は壊滅し門徒ら300人が磔に処せられる悲惨な結末となった。 […]

和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 · 2023年2月21日 11:21 PM

[…] 一万を超える軍勢を率いて金沢城(かなざわじょう)から出陣した前田利長(まえだとしなが)。小松城(こまつじょう)の丹羽軍の情報を探りながら、まずは、松任城(まっとうじょう)に入場した。七月二六日、能美の和田山城(わだやまじょう)に逗留。和田山城は、「和田山・末寺山古墳群」も存在する丘陵地「和田山」に存在した。本格的に、小松城攻めの気配を見せる前田軍。しかし、小松城攻めを主張する利長の弟「前田利政」(まえだとしまさ)と、危険性の高い小松城をおき、大聖寺攻めを優先とする高山長房(たかやまながふさ)との間に意見が割れた。「目先の小松城を先に落とすのが常套手段であろう」「わが隊のみで充分、小松を落とす」武断派の利政は強気である。「それは無理でござろう」「長重は、小松城に篭るのは見えてござる」長房も譲らない。 […]

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