1.北薩戦国物語プロローグ③本文

織田がつき、羽柴がこねし天下餅。
座りしままに 食ふは徳川。
天下餅の歌は、あまりにも有名である。
織田信長(おだのぶなが)の死後、織田軍団を丸ごと配下に治めた羽柴秀吉は、関白太政大臣の座につく。
天下人、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の誕生である。
秀吉は、出自が農民であることから征夷大将軍の座には付けない。
その代案として考え出した苦肉の策が、関白の地位であった。
関白秀吉は、中国の毛利家を配下に治め、四国の帝王、長曾我部元親を降す。
残すは、九州のみである。
そこに、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)が秀吉の前に現れた。
宗麟は、島津排除のため面子を捨て、やむを得ず秀吉を頼ったのである。
秀吉にすれば渡りに船。
快く宗麟の願いを聞き入れ、中国勢、四国勢を中心に十万以上の大軍を九州に送り込む。
第一次九州征伐の始まりである。
関白秀吉軍は仙石久秀(せんごくひさひで)を軍官として豊後戸次へ攻め入った。
その大軍勢を佐土原城主「島津家久」(しまづいえひさ)が迎え撃つ。
戸次の戦い(へつぎのたたかい)である。
島津家のお家芸「釣り野伏せ」の前に、関白秀吉軍は敗退した。
それを大坂にて報を受けた秀吉は、大激怒。
遂に秀吉自ら出陣し、九州を三方面より進撃を開始した。

豊臣軍を待ち構える日向佐土原の島津家久

2.関白「豊臣秀吉と大阪城」

①大坂城の前身「石山本願寺」

大坂城(おおさかじょう)は、もともと本願寺(ほんがんじ)の本山となった「寺内町」を有する要塞「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)であった。
小高い丘を中心に大阪湾にも近く、淀川の水運を利用したこの大要塞は、戦国大名顔負けの城として権威の象徴でもある。
実際に毛利水軍は、後の石山合戦において本願寺方に支援物資を運び込み、平時には、鳥越城を中心とした加賀一向一揆を中心に全国から財が運び込まれていた。
繫栄を極めた本願寺であったが、織田信長(おだのぶなが)の出現により危機に立たされる。
信長は、たとえ宗教であっても、寺社仏閣であっても逆十一らう者は容赦しない。
そして、1570年(元亀元)信長が本願寺に仕掛けた。
それに対し、浄土真宗本願寺派第十一世法主「顕如」(けんにょ)は、打倒仏敵信長を掲げ全国の門徒に檄を飛ばす。
これが、石山合戦である。
焼き討ち、撫で斬りも辞さない信長の非情な攻撃に、遂に顕如は降参。
石山本願寺を去る。

秀吉が築いた天下の名城「大坂城」

②豊臣秀吉が築いた天下の名城「大坂城」

織田信長が本能寺の変で倒れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)が信長の実質的な後継者として台頭する。
秀吉は、四国、中国を支配に収めたところで1583年(天正11)に大坂城築城を着手。
正式な完成は、1598年(慶長3)とされるが、内堀、外堀の二重堀、そして豪華な天守閣を備えた紛れもなく日本一の城であった。
関白となった秀吉は、この城が完成に近づくと同時に、1586年(天正14)九州の島津征伐に乗り出した。
第一次九州征伐である。
第一次で苦戦した豊臣軍であったが、第二次九州征伐にて島津義久(しまづよしひさ)島津義弘(しまづよしひろ)兄弟を降し、返す刀で関東の北条氏をも降す。
秀吉の全国統一である。
この大坂城には、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、島津義久などが秀吉に拝謁し、秀吉に臣下の礼をとった権威の象徴でもある。
大坂城を目の当たりにした大名達は、田舎百姓の秀吉に舌打ちしながらも恐れおののいたに違いない。
しかし、この難攻不落と謳われた「大坂城」も、徳川家康により1614年(慶長19)大坂の陣にて落城。
外堀も埋められ、天守も傷ついた大坂城は、豊臣家の滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消すことになる。
ちなみに大坂は、台地に沿った坂に町が形成されたことから、「小坂」(おさか)から「大坂」(おおさか)になったと伝えられる。

二重堀を備えていた大坂城

北薩戦国物語プロローグ④ | 第二次九州征伐へ進む


11件のコメント

九州三国志②天下人、豊臣秀吉との対決~長曾我部元親との絆 · 2023年2月14日 10:58 PM

[…] 島津義久(しまづよしひさ)、九州をほぼ制覇。この報は直ちに大阪の関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に届けられた。大友宗麟(おおともそうりん)が、秀吉に泣きついたのである。「これ以上は放っておけぬ、ただちに、九州に兵を送る」秀吉の行動は素早かった。九州征伐のはじまりである。その数十万以上と伝えられ、中国の毛利、四国の長曾我部など西国大名を中心に大軍団は九州に上陸した。「猿面間者如き男が」島津軍は、戦意旺盛である。1587年(天正14)12月。仙石久秀(せんごくひさひで)を軍監とした四国勢が九州戸次に上陸。ついに豊臣勢との戦闘が始まった。豊臣方は仙石秀久、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)、信親(ちょうそかべのぶちか)親子、十河存保(そごうまさやす)などを中心に四国勢が中心である。一方の島津勢は島津家末弟の島津家久(しまづいえひさ)を中心に迎え撃つ。 […]

九州三国志③第二次九州征伐~劣勢の島津義久 · 2023年2月14日 11:04 PM

[…] 第一次九州征伐に大敗を喫した豊臣軍は、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)自らが腰を上げた。秀吉軍は、大きく二方面より九州に進軍し、秀吉本隊は、熊本・八代より、別働隊は秀吉の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が豊後、府内より薩摩を目指した。その数二十万と伝えられる。あまりの大軍に島津義弘(しまづよしひろ)は支えきれずと判断し、豊後からの撤退を始める。そして日向高城をめぐり戦いが始まった。勇猛で知られる島津忠長(しまづただなが)も援軍に向かったが、高城も支えきれず、島津軍が薩摩へ撤退。 […]

第七章・1・大坂城略奪 | 家康に擦り寄る豊臣五奉行、増田長盛 · 2023年2月17日 11:21 PM

[…] 亡き豊臣秀吉の大坂城(おおさかじょう)に居座る家康の前に二人の男がいる。豊臣五奉行の一人、増田長盛(ましたながもり)そして、秀頼守役の片桐且元(かたぎりかつもと)である。長盛は、徳川の力を悟り、会津征伐の時より密かに家康に内通していた。三成挙兵を家康に報せたのが、この長盛である。且元は、純粋に秀頼の将来を危惧していたが、秀頼の母、淀の方の息がかかる者から冷遇されていた。且元は、殆ど名だけとなった豊臣家を案じ、家康と通じていたに過ぎない。それが、誤解を生み淀の方の逆鱗に触れた。大坂城における最大の権力者は、淀の方と言っても過言ではない。淀の方だけではなく、当然、淀の方に媚を売る人間もそれに習う。そういう人間は何処にでもいる。現代でも情けない事に、時の権力者に合わせて、日頃関わりない者の悪口を言う者でさえ存在する。面白い事に、そういう人間たちは、権力者に内心馬鹿にされている事も気付かない者が多い。 […]

第七章・2・大阪城の主 | 大阪城乗っ取り計画、徳川家康の謀略 · 2023年2月17日 11:28 PM

[…] 秀頼暗殺の噂を聞いた淀の方は、家康に大坂へ来るよう側近の大野治長に伝えた。その後、家康が来る。治長が家康に問う。「家康殿に聞き捨てならぬ噂が流れておりまする」「はて?どういう噂かの」「家康殿が秀頼様を暗殺しようとしているとの噂でござりまする」「なんで、このわしが秀頼様暗殺などを。伊達や島津ではないのか?」その時、部屋の外側が騒がしくなった。治長が叫ぶ。「何事があったのじゃ」「はあ、今ほど間者が入り込み、守兵を斬り去って逃げ去りました。家康へ一斉に冷たい視線があびせられた。「やはり、家康殿が!」家康が答える。「もしわしだとしても、なぜ自分自身がいる時に実行するのじゃ」且元が囁く。「それも、そうですな」家康が恫喝する。「伊達あたりがやった事をわしのせいにするとは。無礼にも程があるわ」この一言で、豊臣家臣は静まり返った。豊臣家臣団は間違いなく家康だと確信している。しかし、これ以上の追求は出来ない。家康としては、豊臣秀吉が城「大坂城」を支配しているのは自分で、暗殺など簡単とばかりに豊臣方に圧力をかけたのだ。家康の退室後、且元が秀頼に進言する。「秀頼様、ここはあぶのうござるぞ。一旦どこかに避難されては」 […]

第七章・3・正則移封 | 怒れる福島正則、中国へ奔る · 2023年2月17日 11:32 PM

[…] 豊臣秀頼が大坂城を出る前日、福島正則が清洲から周防長門に移封のため清洲城を後にした。清洲城には、九州に帰り場所がなくなった黒田長政が入った。そして九州では、版図拡大のため島津忠恒が九州門司より中国の橋頭堡、下関へ進撃を開始した。その数三万。その中には、新たに九州連合に加わった鍋島直茂もいる。本来ならば毛利勢が迎え討つのが当然であるが、周防長門を没収され福島正則に明渡さなければならない。余所の所領になるものを、死守する必要はなかった。 […]

心岳「島津歳久」と竜ヶ水の「平松神社」 · 2023年2月18日 4:22 PM

[…] 島津歳久(しまづとしひさ)は、島津四兄弟の三男として薩摩祁答院の太守である。1563年(永禄6)から松尾城(吉田城)に入り、大隅国吉田院の領主となり、1580年(天正8)吉田院から自害するまでの間、祁答院の領主として活躍する。歳久は、兄「島津義弘」(しまづよしひろ)をも凌駕すると言われ、武略の歳久として名を馳せた。兄「島津義久」(しまづよしひさ)曰く、義弘は死を恐れない戦いをし、歳久は死を望むかの如く戦いをする。それを案じた義久は、無謀なまでに敵と戦う歳久を、身近な本陣に留めておくことも多々あったとか。そのため、他からは義久の参謀の様に映ったことから「智謀の歳久」とも称された。1576年(天正4)、この頃から本格的な島津家の九州制覇戦が始まる。歳久は、日向の伊東義祐(いとうよしたけ)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)と戦い、また、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との沖田畷の戦いにおいては、肥後国の佐敷(さじき)に本陣を置いていた。これが、後の梅北一揆に起因するかは不明である。そして、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の九州征伐がはじまる。歳久は、天下人秀吉と島津家の力の差を察し義久に抗戦反対の意を示した。しかし島津家は、戦争に突入し敗北を喫することになる。当初、抗戦反対の意を示した歳久は、後に降参した義久に従わず、秀吉に弓を弾き後に秀吉の怒りを買う結果となった。一度戦えば、とことんやり通す!これが、武略の歳久こと「島津歳久」という漢である。 […]

第10章・2・迷う家康 | 家康の心を見透かす南光坊天海 · 2023年2月19日 12:27 AM

[…] 家康が天海を呼びつけた。天海が部屋に入り、家康の心を見透かしたかのように話す。「家康殿、迷っておられるな」家康は、豊臣方の思惑を風の噂で聞いている。豊臣方というより、島津義弘がという事も。「おのれ、義弘め」手の爪を、噛む癖が始まる。家康は、苦労の人生を回想した。幼少より今川義元の人質となり、解放されると織田信長がいた。信長が、本能寺で明智光秀の謀反で世を去ると、今度は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が立ちはだかった。海道一の弓取りと評されながらも、二番手に甘んじてきたこの男は、決して天下取りの野望を諦めることなく、着実に実力を付け辛抱強く好機を待ち続けた。今回も三成を利用し、豊臣恩顧の武将の分裂そして、前田家、佐竹家をはじめ対抗勢力の牙を抜き、全てが計画通りに進んでいた。しかし、又もあと一歩の所で思わぬ敵が現れた。<まだ終わったわけではない> […]

「前田利政」という漢(おとこ)・その後③ · 2023年2月19日 8:22 PM

[…] 一度目の中央出兵時における金沢返しを不服とする利政。何故、大聖寺まで進軍しながらも金沢へ撤退したのか。二度目の出兵要請が出るが利政は、出兵を拒んだ。その責めにより、その後家康により所領没収の沙汰が下される。その説として、以下が挙げられる。・妻が西軍(石田方)に人質にとられている・父、利家の遺言(前田家は、大坂城の秀頼を補佐する)を通したい・本心は西軍(石田方)に加担したい・前回の中央出兵時の無意味さに、不満を抱いた。・西軍勝利時の保険として、前田家存続の手段など所領没収後、京に上り文化人としての生活を送る。武人から文化人へ転進した利政であったが、情報収集も兼ね活躍したと思われる。加賀百万石の「伝統文化」、「伝統工芸」。現在の百万石文化において、最大功労者といっても過言ではないだろう。その後、利政の子「直之」により前田土佐守家が誕生し、加賀藩主「前田利常」を支える加賀八家(かがはっか)として加賀百万石を支えた。 […]

和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 · 2023年2月21日 11:23 PM

[…] 高山右近(たかやまうこん)は、日本の歴史の中でキリシタン大名として有名な武将である。当時の名を高山長房(たかやまながふさ)とした右近は、摂津国に生まれ、父の友照と共に松永久秀(まつながひさひで)、和田惟政(わだこれまさ)、荒木村重(あらきむらしげ)に仕える。右近の居所と言えば高槻城(たかつきじょう)である。高槻城の城主となったのは、荒木村重の後援を受け、主家である和田家との事件の時であった。右近は、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から重用され、山崎の合戦、賤ケ岳の戦い、小田原の陣など数々の戦いに参陣。頭脳明晰で、戦巧者としても知られる。そんな右近であったが、秀吉のバテレン追放令により人生が一転。生粋のキリシタンである右近は、自ら大名の座を捨てた。後に、右近の才を惜しんだ秀吉が千利休(せんのりきゅう)を説得に向かわせた程の逸材であったという。そして、その逸材「高山右近」を手に入れたのが加賀の前田利家であった。右近の金沢における功績は大きい。そのひとつが、現在にも残る金沢城(かなざわじょう)の惣構(そうがまえ)である。金沢城は、北に浅野川、南に犀川という天然の要害が存在し、堀は存在するが規模は小さい。しかし、「内惣構」と「外惣構」を要し幅は小さいものの、深さ10メートル近い防御力に優れた構造となっている。城の縄張りに精通した右近は、後に越中「高岡城」の縄張りも手掛けた。最終的には、徳川家康のキリシタン国外追放令を受け金沢を去る右近であるが、千六百年の北陸の関ヶ原には、利長に従い参陣。小松城、大聖寺の攻城戦に活躍を見せている。 […]

石川門★金沢戦国物語②利家、金沢城へ | 一向宗との戦いから得た真宗王国の改造 · 2023年2月25日 9:17 PM

[…] 今では、「金沢城ライトアップ」で有名な金沢屈指の観光スポットである『石川門』(いしかわもん)。重要文化財に指定されている石川門は、かつて金沢城(かなざわじょう)の搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門として機能していた。枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造であり典型的な織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)である。織豊系城郭とは、主に織田信長(おだのぶなが)から豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代に用いられた城郭の特徴で、その一つの特徴が虎口(こぐち)にある。喰違虎口(くいちがいこぐち)、桝形虎口(くいちがいこぐち)などがあるが、いずれも寄せ手が容易に城内侵入を出来ないようにする役目を持っていた。石川門は、桝形虎口であり天下名城「大阪城」(おおさかじょう)や「江戸城」(えどじょう)と同じである。利家は、信長そして秀吉から築城術、そして文化を受け継いでいた。観光客の方によく金沢城の天守閣(てんしゅかく)と勘違いされる石川門であるが、その美しさから現在における金沢城のシンボルとして間違いない。鉛瓦葺(なまりかわらぶき)、そして白亜の塗籠壁(ぬりごめかべ)、海鼠壁(なまこかべ)が魅力的であり、さらに季節毎のライトアップイベントも開催され沢山の観光客が訪れる。 […]

前田土佐守家資料館★⑤伝統文化の礎~前田土佐守家の祖「前田利政」の暗躍 · 2023年2月27日 10:47 PM

[…] 時は、1599年(慶長4)。反映していく城下町、太平を迎えた町民の顔。この時が、大城下町を形成した「加賀百万石城下町」、前田利家(まえだとしいえ)生涯の泰平期であった。しかし、それも長くは続かない。天下人であった太閤「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の死。これを期に利家の一抹の不安が的中していくことになる。利家の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。五大老筆頭、徳川家康(とくがわいえやす)である。家康は、必ず天下取りに奔るは必定。その前に。利家は、嫡男「前田利長」(まえだとしなが)、次男「前田利政」(まえだとしまさ)を呼んだ。利長は伏見に残り、豊臣秀頼(とよとみひでより)の補佐をすること。利政は加賀を守り、有事に備えること。弟の利政は武断派である。当然の如く、家康が動けば前田家として家康と戦うことを主張するであろう。しかし、利長は、利家の遺言を守らず加賀に帰り徳川方に加担。北陸・小松にて反徳川方と戦うことになる。結局のところは、関ヶ原の戦いの本戦には間に合わなかったが、遅れ家康の元へ駆けつける。その時、利政は兄利長の出兵要請を断った。土佐守利政、出兵せず。その後、関ヶ原の戦いに勝利し、後に天下人となる「徳川家康」から、所領没収のを宣告される。利長の優柔不断な行動に嫌気が差した、また、利長と図り、関ヶ原の戦いにいずれがが勝利しても、前田家が存続する手段を選択した。など、その理由は定かではない。 […]

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