初代「島津忠久」から始まる「薩摩島津氏 」

薩摩島津氏。
もともとは、1185年頃、惟宗広言の嫡男「忠久」が、鎌倉初期に中央より南九州の近衛家領荘園「島津」へ入ったのが薩摩島津家の始まりである。
初代「忠久」が薩摩島津家の初代であり、
それから四百年の間、薩摩の主として君臨する。
しかし、宗家、分家の間では常に争い事が絶えず、さらに北薩摩、大隈、日向には有力豪族が存在していた。
渋谷家、蒲生家、伊東家などである。
そして、忠良(日新斎)と十五代貴久を中心とし薩摩、大隈、日向を舞台に抗争が激化する。
これが三州統一戦である。
その三州を、貴久の子「義久」とその兄弟「義弘」「歳久」の代に入りようやく統一することに成功。
そして、三州統一を果たした島津は次なる野望に着手した。
九州三国志とも謳われる、島津四兄弟の州制覇戦である。

薩摩島津氏と若狭島津氏

惟宗広言の嫡男であった「忠久」が島津荘「薩摩」へ。
次男「忠季」氏が、若狭へ入り若狭守護となった。
若狭へ入った忠季の以降、若狭守護を追われた若狭家は、南北朝時代、室町時代を経て「島津」姓を名乗り、若狭島津氏として現在に至る。

また、「忠久」「忠季」いずれも、本当に広言の実子であったかは、不明である。

若狭島津氏が統治した越前海岸

薩摩島津氏の歴史

1185年 惟宗忠久の島津荘入りから、初代「島津忠久」から始まる薩摩島津氏の歴史が始まる。
1221年 二代「島津忠時」が、承久の乱にて鎌倉方として後鳥羽上皇の京方と戦う。
1274年 三代「島津久経」が、北九州に上陸した元軍と戦う。(文永の役)
1337年 六代「島津師久」が、南北朝の動乱において、足利尊氏が支持する北朝方として参戦。
1577年 天正5年に16代「島津義久」「島津義弘」を中心とした島津の九州制覇「九州制覇戦」が始まる。

1587年 天正15年、島津義久が薩摩川内「泰平寺」にて、秀吉に降伏。
1600年 17代「島津義弘」が石田三成の西軍として「関ヶ原の戦い」に参戦。
1609年 18代「島津忠恒(後の島津家久)」による、琉球征伐。

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3件のコメント

九州三国志①島津四兄弟の九州制覇戦~戦国最強軍団が九州を北上 · 2023年2月14日 9:03 PM

[…] 1586年(天正14)、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、中国の毛利輝元(もうりてるもと)、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し徳川家康(とくがわいえやす)をも従えた。全国制覇もほぼ完成しつつある。残るは関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)、奥州の伊達政宗(だてまさむね)、そして九州・薩摩島津家の島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟のみとなった。これまでの九州は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)をはじめ、肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志(きゅうしゅうさんごくし)と謳われるようになる。その後、状況は一転。均衡を破ったのは島津であった。島津は長兄であり当主の義久を筆頭に、義弘、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)と稀代の名将で島津四兄弟(しまづよんきょうだい)と恐れらた。義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮を執る。島津四兄弟率いる島津軍は、薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占めるほどに成長した。いよいよ九州制覇戦(きゅうしゅうせいはせん)へ突入した島津軍は、怒涛の如く北上を開始。そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。九州制覇戦の3大決戦のひとつ「耳川の戦い」(みみがわのたたかい)である。 […]

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:53 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津氏十七代当主であり薩摩の猛将である。祖父にいろは歌でも有名な「島津日新斉」(しまづじっしんさい)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした島津四兄弟の九州制覇戦へ突入していくのである。 […]

大納言「前田利家」の死 | 小松プロローグ① · 2023年2月22日 9:21 PM

[…] 大老(たいろう)、奉行(ぶぎょう)の職名が正式であったかは別とし、本説明は、大老、奉行として記載する。五大老(ごたいろう)は徳川家康(とくがわいえやす)、前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)が就いた。家康は当然の如く、利家、輝元、景勝は百万石を有する大大名であり順当である。景勝に関しては、毛利両川の一角「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)の死と同時に代役としてエントリーされた。その他の候補としては、薩摩の島津氏、奥州の伊達氏の名前が挙がってもよさそうであるが、この両氏は、前田、上杉、毛利が早々に秀吉に臣従したのに対し、外様中の外様大名である。また、秀吉の心中としては、上記の三氏と比べて扱いにくい存在でったのが正解と思われる。そして、五人目の大老「宇喜多秀家」であるが、五十万石を有する大大名であり秀吉より「秀」の字を与えられた猶子(ゆうし)であったためである。しかし、同じく猶子(ゆうし)であった小早川秀秋(こばやかわひであき)は、秀吉から疎んじられており除外。秀吉の死後は、秀吉の思惑通り五大老の内、家康を除く四大老が秀吉の子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)擁立に向け親豊臣として動く。 […]

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 へ返信する コメントをキャンセル

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