1.見事な石垣残す飛騨・高山の「飛騨松倉城」

飛騨松倉城跡は、高山市街を見下ろせる標高856.7Mの松倉山に築かれた山城であり、姉小路自綱(三木自綱)の居城である。
飛騨国にて当時随一の城であった飛騨「松倉城」の見どころは、何と言っても大規模な石垣である。
富山の役においては、姉小路自綱(あねこうじよりつな)の隠居後、姉小路秀綱(あねこうじひでつな)が城主となり金森長近率いる金森軍と戦った。
飛騨松倉城(ひだまつくらじょう)にて戦った秀綱は敗れ、自綱も捕らえられたことで姉小路氏(三木氏)は滅亡。
その後、金森支配が続くが、長近が飛騨高山城を築城し、それを居城としたことで不便な山城であった飛騨松倉城の役目は終わった。
飛騨鮎崎城飛騨鍋山城とともに富山の役に登場する飛騨松倉城であるが、越中松倉城とは異なる。
飛騨松倉城(高山市松倉町城山)は、標高約850Mの松倉山の山頂に構築された山城である。
高山市街の西南にある松倉城跡からは、高山盆地を眼下に東の木曽、西の郡上、南の美濃、北の越中と東西南北街道を押さえる要衝であったことが窺える。

飛騨松倉城跡

2.飛騨の梟雄・姉小路自綱(三木自綱)

自綱の姉小路家の歴史については、京極一族の三木家から始まる。
藤原氏系の名家「姉小路家」を乗っ取る形で朝廷を抱きこんだ自綱の父「良頼」は、遂に姉小路一族であると朝廷から認められることに成功する。
この時、自綱も姉小路頼綱と名を改めた。
その後、自綱は、織田信長との誼を結び飛騨国支配を盤石なものへと動き出すが、信長死後は、北飛騨の江馬輝盛を八日町の戦いで勝利するも、秀吉に逆らい佐々成政と結ぶことで自信を破滅へと導いてしまう。
最後まで戦い抜いた次男の秀綱は、晒し首にされたが、自綱は生き延びた。
まさに、飛騨における戦国の梟雄たる所以である。
そんな自綱にも、文化人としての顔が?
桜洞城は、冬城、松倉城は夏城と称し、流石にその後公家として生きた自綱の、文化人としての色が垣間見えたエピソードであった。
そんな歴史を持つ姉小路氏の居城「飛騨松倉城」から見下ろす高山市街の光景は最高です。

越前松倉城から高山市街を見下ろす

三木自綱と飛騨松倉城が登場する物語

贅の限りを尽くす飛騨の支配者「三木自綱」の「飛騨松倉城」に秀吉配下の将「金森長近」が攻め寄せる。
姉小路自綱こと三木自綱と高山の飛騨「松倉城」が、越飛戦国物語の第2章で登場。

②松倉城(岐阜県高山市)②飛騨の支配者!三木自綱こと、姉小路頼綱


3件のコメント

江馬氏城館跡を復元した国史跡「江馬氏館跡」がスカイドーム神岡に隣接オープン · 2023年1月22日 8:54 PM

[…] 現在の神岡を中心に、戦国期に飛騨北部を支配していた江馬氏。その屋敷跡「江馬氏城館跡」が昭和55年に国の史跡に指定された。戦国期の江馬氏は、「江馬時盛」「江馬輝盛」を指す。特に「江馬輝盛」は、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信の間に翻弄され、また、巧みに立ち回った。武田上杉の争いが終わると、織田信長に臣従しつつ北飛騨の完全支配に乗り出す。その後、南飛騨の飛騨松倉城主「三木自綱(姉小路頼綱)」と飛騨全土の覇権を巡り争い、飛騨の関ヶ原と謳われる「八日町の戦いで」敗れ、飛騨支配も志半ばでこの世を去った。江馬氏城館跡は、地層から堀、屋敷跡など当時の様子が伺える。また、復元された庭園、5つの大きな殿様の庭石(伝説)は美しく飛騨の静かな観光スポットである。 […]

飛騨鍋山城と三木家の血塗られた歴史 · 2023年1月25日 11:50 PM

[…] 飛騨の戦国史において飛騨鮎崎城、飛騨松倉城などと共に太閤秀吉の「富山の役」において登場する「鍋山城」。鍋山城(なべやまじょう)は、現在の岐阜県高山市における主に漆垣内町と松之木町に跨る鍋山(なべやま)にその姿を見せた。山頂が2つとも3つとも数えられるこの鍋山に、本丸と出丸を構える。十六世紀半ばに築城された「飛騨鍋山城」は、鍋山豊後守安室(なべやまあんむろ)が築城したと伝わる。三木家家臣の平野右衛門尉の子「平野安室」(平野豊後守安室)が、鍋山城を築き「鍋山安室」と称したという。その後、姉小路自綱(あねこうじよりつな)の策略に嵌り、自綱の弟「三木顕綱」(みきあきつな)を養子に迎えたことで、姉小路氏に乗っ取りを許してしまう。養子に入った顕綱は、鍋山一家を毒殺、または追放したのであった。乗っ取りの張本人である顕綱も、自綱から謀反の疑いをかけられ暗殺されるという経緯がある鍋山城。以降、自綱の次男「秀綱」、三男「季綱」、越中に侵攻した「金森長近」と城主が移り変わる。飛騨鍋山城は、姉小路氏(後の三木氏)の防衛線の一つとして木曽街道を押さえる役割を果たしたのではないか。江戸期に入り、越中氷見から信濃松本へ「ブリ」が運び込まれた。北アルプス山脈超えという難関を超えていく当時の運搬は命がけであり、このルートは、現在、「ぶりノーベル出世街道」ぶり街道」と呼ばれている。 […]

「富山城」佐々成政の居城~富山県富山市丸の内 · 2023年1月30日 6:27 PM

[…] 富山城跡が存在する現在の富山市は、東西に延びる北国街道(現在の国道8号線を担う)から富山を起点として飛騨街道(現在の国道41号線を担う)へと続く越中の要衝である。西に神通川、東に常願寺が流れ、それを天然の要害とする。戦国期に越中守護職「神保長職」(じんぼうながもと)が築き、その後、越後の上杉謙信との争いの中、長職の子「神保長住」(じんぼうながずみ)そして、越飛戦国物語の主人公「佐々成政」と続く。本能寺の変にて織田信長がこの世を去り、豊臣秀吉を中心に時代が動き始めた。当時、秀吉の格上であった丹羽長秀、細川幽才、そして、成政の盟友であった前田利家までもが秀吉の軍門に下った。プライドの高い成政に、秀吉の配下となる選択肢はなく、後に「前田・ 佐々戦争」と呼ばれる抗争を加賀・能登・越中で繰り広げる。また成政は、秀吉、利家だけではなく、越中の上杉景勝とも激しく戦った。東西に敵を抱えた成政は、数少ない味方であった「神保長住」、飛騨松倉城の城主「姉小路頼綱」、飛騨帰雲城の城主「姉小路頼綱」と共に戦い続けたが富山城にて身動きが取れない状況まで窮地に陥る。その後「さらさら越え」にて、徳川家康に最後の望みを託すが失敗。家康の協力を得ることなく、富山の役が本格化する。秀吉方が白鳥城、安田城、大峪城から富山城を睨みを利かせ成政を圧迫。衆寡敵せず、1585年(天正13)遂に成政が降伏し富山城が事実上の陥落となった。 […]

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