1.越中大峪城の歴史と富山の陣

富山県の越中大峪城(えっちゅうおおがけじょう)は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、佐々成政の富山城牽制を目的とした城として知られる。
戦国期に富山城の詰城として築城された越中白鳥城と共に神保長職(じんぼうながもと)が支城として築城したとされる。
そして、富山の陣においては、佐々成政が富山城籠城作戦に伴い白鳥城(しらとりじょう)と共に大峪城の守兵も富山城へ撤退を指示。
佐々軍の撤退とともに、豊臣軍が占拠した。
改築した大峪城(おおがけじょう)は、豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、安田城とともに富山城に圧力をかける役割を担う。
大峪城(富山県富山市立五福)は、当時「井田川」に面し堀を備えたことが確認されている。
現在の富山市立五福小学校の位置が主郭のあった場所であり、運動場の北側には、案内板が存在するが小学校敷地であることから注意願いたい。

呉羽方面から富山市街を望む

2.大峪城跡と疑惑の片山延高

佐々成政が籠る富山城攻めの折り、越中白鳥城、越中安田城、越中大峪城の三城が前衛拠点となったことは広く知られている。
そして、豊臣軍の先陣であったのが「前田利家」であり、さらに利家から前田軍の最前衛となる三城を預かったのが「岡嶋一吉」と「片山延高」(かたやまのぶたか)であった。
岡嶋は、利家の信頼も厚く生涯、前田家に忠義を尽くした。
一方片山は、前田家の知恵袋と称されながらも利家から疑念を抱かれている。
富山の役においても功績を残した延高は、大峪城主を与えられる。
その後の経緯であるが、利家が越後の上杉景勝の動向を警戒するため延高に白鳥城入りを指示。
一旦「白鳥城」に入った延高が、なぜか「安田城」に移った。
これに、利家の延高に対する疑心が強まったと伝えられる。
「白鳥城」と「安田城」の地理的要素が関係したのか?
今後、私の個人課題であります。
結局のところ、利家が死ぬ間際に延高警戒の意を次期前田家当主「利長」に伝えた。
延高が、徳川家康と通じていたという疑惑の真相は、不明である。
利家の意を受けた前田利長は、石川源太、松田直憲に命じ片山延高を殺害したのである。
ちなみに大峪城(または、大掛城、大懸城)は、延高が「伊賀守」を称していたことから伊賀城とも呼ばれる。

越飛戦国物語~諦念、伝わらぬ佐々成政の想い


3件のコメント

富山の役における白鳥城の出城、富山「安田城」と「安田城跡資料館」 · 2023年1月28日 5:32 PM

[…] 富山県の越中安田城(えっちゅうやすだじょう)は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、佐々成政の富山城牽制を目的に築城した出城である。安田城には、前田家家臣「岡島一吉」(おかじまつかよし)が城将として入るが、この「岡島一吉」と後の加賀大聖寺攻めの折「南郷城跡の南郷神社」建立のきっかけとなった「岡島市正」は、同一人物かは不明である。豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、岡島一吉が指揮を執る安田城、大峪城が富山城に圧をかけた。安田城跡(富山県富山市婦中町安田)から見て取れるように、城の東側を流れる井田川から水を引き込み周囲に小規模であるが堀が築かれていた。戦国時代の戦いにおける、砦、そして出城レベルになると、かなりの労働力が必要となる。この地域の農民達の溜息が聞こえてきそうだが、おいしい凌ぎにでもなったのであろうか?もしかしたら、ちょっとした公共事業のようだったかもしれない。富山の役における、経過であるが、富山城の佐々成政が「越中白鳥城」「越中安田城」「越中大峪城」の圧力の前に戦意を喪失。しかも、東からは、越後の上杉景勝が魚津城を落とし富山城に迫ると同時に、南からは、金森長近が飛騨を制圧し越中に迫る。ここで、流石の成政も秀吉に降参。呉羽山にて剃髪し、ここに富山の役が終結となる。 […]

富山の役における豊臣軍の前線基地、富山「白鳥城」 · 2023年1月28日 5:37 PM

[…] もともとは、神保長職(じんぼうながもと)が上杉謙信の越中侵攻に備えて富山城の詰城として築城された白鳥城(富山県富山市吉作)。後に佐々成政が富山城の支城として強化された。しかし、1585年(天正13)、豊臣秀吉が越中「佐々成政」征伐のため北陸に出兵した富山の役(越中征伐)の際、豊臣軍が大軍であったため、富山の白鳥城を放棄し軍を富山城に集中させた。富山城の詰城を目的として築城された「白鳥城」は、ここで西側からの攻撃における弱点を露呈したのである。秀吉本陣は、倶利伽羅に置かれていたが、前衛の「織田信雄」「前田利家」は、富山城を見下ろす白鳥城に本陣を置いた。白鳥城は西に弱いが、東に強い。これが、皮肉にも富山城の成政にとっては、痛手となった。成政にとっては、白鳥城に陣取った豊臣軍に攻撃をかけるのは、至難の業であったのである。その後、秀吉本陣は、一夜の陣を現在の「太閤山」に移すが、前衛は、白鳥城を拠点に安田城(やすだじょう)、大峪城(おおがけじょう)の二つので城にて富山城を威嚇。圧力をかける豊臣軍に対し、成政は、成す術なく降参する。富山『白鳥城』 は、越飛戦国物語・第4章に登場する。 […]

「富山城」佐々成政の居城~富山県富山市丸の内 · 2023年1月30日 6:00 PM

[…] 富山城跡が存在する現在の富山市は、東西に延びる北国街道(現在の国道8号線を担う)から富山を起点として飛騨街道(現在の国道41号線を担う)へと続く越中の要衝である。西に神通川、東に常願寺が流れ、それを天然の要害とする。戦国期に越中守護職「神保長職」(じんぼうながもと)が築き、その後、越後の上杉謙信との争いの中、長職の子「神保長住」(じんぼうながずみ)そして、越飛戦国物語の主人公「佐々成政」と続く。本能寺の変にて織田信長がこの世を去り、豊臣秀吉を中心に時代が動き始めた。当時、秀吉の格上であった丹羽長秀、細川幽才、そして、成政の盟友であった前田利家までもが秀吉の軍門に下った。プライドの高い成政に、秀吉の配下となる選択肢はなく、後に「前田・ 佐々戦争」と呼ばれる抗争を加賀・能登・越中で繰り広げる。また成政は、秀吉、利家だけではなく、越中の上杉景勝とも激しく戦った。東西に敵を抱えた成政は、数少ない味方であった「神保長住」、飛騨の「姉小路頼綱」と共に戦い続けたが富山城にて身動きが取れない状況まで窮地に陥る。その後「さらさら越え」にて、徳川家康に最後の望みを託すが失敗。家康の協力を得ることなく、富山の役が本格化する。秀吉方が白鳥城、安田城、大峪城から富山城を睨みを利かせ成政を圧迫。衆寡敵せず、1585年(天正13)遂に成政が降伏し富山城が事実上の陥落となった。 […]

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