1.越中「白鳥城址」の歴史

白鳥城址の一帯には、高地性集落跡(こうちせいしゅうらくあと)が見つかるなど、この地は古より富山平野を眺望できる立地であった。
平安時代末期には、木曽義仲(きそよしなか)の将「今井兼平」(いまいかねひら)が陣を張ったとする記録が残る。
そして戦国期には、越中富山にて勢力を誇っていた神保一族における富山城の付城として改築し、戦国末期の豊臣秀吉の富山の陣においては、富山城攻めにおける豊臣軍の本陣として登場する。
今井兼平(または中原兼平)が陣を張ったとすることから、源義仲こと木曽義仲の源氏軍が富山、石動を通過し倶利伽羅峠へ向かったのであろう。
戦国期においては、1520年代に衰退した神保家を復興したのが神保長職(じんぼうながもと)あり、その時に居城としたのが富山城である。
富山城は、地形的に見ても神通川を西に置くことで西側に対する防御力は高い。
しかし、東側には天然の要害がなく富山城としての防御機能に頼らざるをえなかった。
そこで登場したのが、白鳥城(しらとりじょう)である。
万が一、富山城に危機が迫った場合は、神通川を天然の要害とし詰城としての白鳥城にて防戦する。
だがそれはあくまでも西側、すなわち越後勢に対しての戦略であり、東側への備えとしての機能は不十分であったといえよう。
その後の戦国末期、富山城主「佐々成政」は、豊臣秀吉の富山の陣において西側からの攻撃にさらされるのであった。
富山のビジネスマンと仕事をすると、よく「呉西」「呉東」と耳にする。
富山では、今でも神通川をはさんで「呉西」「呉東」を大きな区切りとして営業をしているらしい。
富山城は、越飛戦国物語・第5章に登場する。

越中「白鳥城址」

2.皮肉にも豊臣軍の前線基地として機能した富山「白鳥城」

もともとは、神保長職(じんぼうながもと)が上杉謙信の越中侵攻に備えて富山城の詰城として築城された白鳥城(富山県富山市吉作)。
後に佐々成政が富山城の支城として強化された。
しかし、1585年(天正13)、豊臣秀吉が越中「佐々成政」征伐のため北陸に出兵した富山の役(越中征伐)の際、豊臣軍が大軍であったため、富山の白鳥城を放棄し軍を富山城に集中させた。
富山城の詰城を目的として築城された「白鳥城」は、ここで西側からの攻撃における弱点を露呈したのである。
秀吉本陣は、倶利伽羅に置かれていたが、前衛の「織田信雄」「前田利家」は、富山城を見下ろす白鳥城に本陣を置いた。
白鳥城は西に弱いが、東に強い。
これが、皮肉にも富山城の成政にとっては、痛手となった。
成政にとっては、白鳥城に陣取った豊臣軍に攻撃をかけるのは、至難の業であったのである。
その後、秀吉本陣は、一夜の陣を現在の「太閤山」に移すが、前衛は、白鳥城を拠点に安田城(やすだじょう)大峪城(おおがけじょう)の二つので城にて富山城を威嚇。
圧力をかける豊臣軍に対し、成政は、成す術なく降参する。
富山『白鳥城』 は、越飛戦国物語・第4章に登場する。

④孤立無援!秀吉、富山城包囲網★白鳥城(富山県富山市城山)

3.富山市「呉羽山」の観光スポット「呉羽山公園」と「呉羽山展望台」

呉羽丘陵にあり、晴れた日には立山が望める絶景地「呉羽山公園」と「呉羽山展望台」。
特に、呉羽山展望台は、東に立山連峰、北に富山湾を隔て能登半島までが望める富山市屈指の絶景スポットである。
また、この呉羽山(くれはやま)で成政の降伏が秀吉に受け入れられた。
降伏した成政は、肥後へ移封されその後に切腹。
後に切腹した成政を慕った領民が剃髪を埋めて道心塚をつくり、その菩提提を弔った。
道心塚~成政の剃髪址は、越飛戦国物語・第6章に登場する。

白鳥城址から富山城を見下ろす

4件のコメント

富山の役における白鳥城の出城、富山「安田城」と「安田城跡資料館」 · 2022年2月26日 3:57 PM

[…] 富山県の越中安田城は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、富山城牽制を目的に築城した出城である。 豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、安田城、大峪城が富山城に圧をかけた。安田城(富山県富山市婦中町安田)は、城の東側を流れる井田川から水を引き込み周囲に小規模であるが堀が築かれたが、富山の役の後は、ほとんど出城としての利用価値はなくなり廃城となった。 […]

道心塚~成政の剃髪址(富山市安養坊)⑥無念の剃髪!佐々成政降伏 · 2023年1月27日 6:08 PM

[…] そこに宿命の男、前田利家配下の使者が現れた。「佐々殿、そろそろ・・・」〈どのか?〉敗軍の将は、辛いものである。成政は、前田兵に従い白鳥城へ向かう。そして、秀吉の前に静かに姿を現した。武将成政、最後の言葉である。武将、佐々成政が辞世の句: […]

越中「大峪城」(おおがけじょう)富山市五福 · 2023年1月28日 5:18 PM

[…] 富山県の越中大峪城(えっちゅうおおがけじょう)は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、佐々成政の富山城牽制を目的とした城として知られる。戦国期に富山城の詰城として築城された越中白鳥城と共に神保長職(じんぼうながもと)が支城として築城したとされる。そして、富山の陣においては、佐々成政が富山城籠城作戦に伴い白鳥城(しらとりじょう)と共に大峪城の守兵も富山城へ撤退を指示。佐々軍の撤退とともに、豊臣軍が占拠した。改築した大峪城(おおがけじょう)は、豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、安田城とともに富山城に圧力をかける役割を担う。大峪城(富山県富山市立五福)は、当時「井田川」に面し堀を備えたことが確認されている。現在の富山市立五福小学校の位置が主郭のあった場所であり、運動場の北側には、案内板が存在するが小学校敷地であることから注意願いたい。 […]

「富山城」佐々成政の居城~富山県富山市丸の内 · 2023年1月30日 5:05 PM

[…] 本能寺の変にて織田信長がこの世を去り、秀吉を中心に時代が動く。当時、秀吉の格上であった丹羽長秀、細川幽才、そして、成政の盟友であった前田利家までもが秀吉の軍門に下った。プライドの高い成政に、秀吉の配下となる選択肢はなく、後に「前田・ 佐々戦争」と呼ばれる抗争を加賀・能登・越中で繰り広げる。また、敵は豊臣秀吉、前田利家だけではなく、越中の上杉景勝とも激しく戦った。東西に敵を抱えた成政は、数少ない味方であった「神保長住」、飛騨の「姉小路頼綱」と共に戦い続けたが富山城にて身動きが取れない状況まで窮地に陥る。有名な「さらさら越え」にて、徳川家康に最後の望みを託すが失敗。その後、富山の役が本格化。秀吉方が白鳥城、安田城から富山城を睨みを利かせ、成政が遂に降伏する。 […]

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