前田利家と金沢城の歴史

もともとは、「尾山御坊」であった「金沢城」。
一向一揆の拠点であった尾山御坊は、1580年(天正8)織田信長配下の、佐久間盛政により陥落。
後に、前田利家により「金沢城」として大改築された。

前田利家の金沢入り

1570年(永禄13)から始まった、織田氏と朝倉氏の対立
1573年(天正元)越前の朝倉義景を討った織田信長は、佐久間盛政を将とし加賀侵攻を開始。
盛政は、1577年(天正5)には、上杉謙信の攻撃から小松の御幸塚城(小松市今江町)を死守すると、翌年には、加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」を攻略。
その頃、前田利家も加賀から能登に侵攻し、1581年(天正9)の信長から能登一国を与えられ、七尾城そして、後に小丸山城に入る。
しかし、1582年(天正10)、本能寺により信長がこの世を去り、羽柴秀吉と柴田勝家が信長の後継争いをする中、遂に両者の間で「賤ケ岳の戦い」が勃発。
勝家に付いた盛政と、最終的に秀吉に付いた利家であったが、秀吉が勝利。
その功労により、利家は能登に加えて金沢も加増され能登「小丸山城」から加賀「尾山城」後の金沢城へ居城を移した。

石川門(いしかわもん)

兼六園と金沢城をつなぐ裏門「搦め手門」と機能した石川門。
桝形と呼ばれる複雑な構造は、敵の進入を鈍らせる「織豊型」を採用しているところに利家の経験が生かされている。

金沢城の石垣は、戸室山の「戸室石 」

金沢城の石垣として使用される石であり、「とむろやま」の「とむろいし」を採用している。
「戸室山」は、8キロ東にある山です。
「戸室石」には2種類あります。
赤味を帯びた石が「あかとむろ」。
青味を帯びた石が「あおとむろ」であり、最近行った復元工事も、戸室石を使って再現されました。
「とむろいし」からは、遠赤外線が発せらる。
パン、ベッド、その他
金沢では、その効果を利用した商品も数多くあります。


9件のコメント

第10章・⑨釣り野伏せ・改 | 家康に言葉での「釣り野伏せ」を仕掛ける島津義弘 · 2022年2月27日 3:36 PM

[…] 中国安芸の決戦にて毛利家は、徳川を裏切った。度重なる裏切りに、毛利家の毛利秀包が心を痛めていた。そこで、その秀包の心中を察した義弘が、毛利の威厳を取り戻すため毛利秀包を四国の藤堂高虎征伐に向かわせたのである。高虎は生け捕られ、事の真意を吐かされた。義弘がたたみ掛ける。「本多正信を処罰するが、よろしいな。徳川殿」家康は、正信を切り捨てた。「好きにされるがよい」正信は危険である。義弘は今後、本多正信だけはそのままにしておくつもりはなかった。金沢城にて行われた金沢評定も終盤、今後の日の本について進んでいった。 […]

海岸線に築かれた富山・氷見の要塞「阿尾城」 · 2023年1月29日 10:29 PM

[…] 九州肥後から流れ越中・氷見城主となった「菊池武勝」。越中において当初は、阿尾城主として上杉謙信の配下となり、織田信長(おだのぶなが)、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家(まえだとしいえ)と次々と主君を代えながらも阿尾城主としての地位を守り抜く。前田、佐々抗争では、豊臣秀吉と争った富山城の城主「佐々成政」から金沢城の城主「前田利家」に鞍替えし、前田慶次郎(まえだけいじろう)など前田軍を城へ迎え入れた。越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)との戦いから領国経営に時間をかける事が出来なかった成政。金沢移封後、隣国における軍事行動が少なく、在地勢力の懐柔に余裕があった利家の差がここに出たのであった。菊池武勝、安信親子は、前田家に従う事で氷見を安堵されるが、安信の死後間もなく阿尾城は、廃城となる。菊池一族も正式に前田家の家臣となり、ここで阿尾城主としての役割も終えることになる。 […]

佐々平左衛門政元と倶利伽羅城の謎を解く · 2023年2月18日 9:25 AM

[…] 上記に記載した、越能賀三州誌における佐々成政と前田利家の争いにおいて、成政が国境封鎖をしたとあるように城レベルまで必要ないとしても倶利伽羅における砦機能は非常に重要であったと考えられる。1584年(天正12)に朝日山城急襲に失敗した成政は、さらに国境強化を始める。倶利伽羅城の強化は、そのタイミングであり、佐々平左衛門(さっさへいざえもん)と野々村主水(ののむらもんど)が入る。成政は、いずれ利家の拠点である金沢「金沢城」を落とさなければならない。流石に、百万石近い国力を持つ金沢「前田家」を真っ向から攻めるわけにはいかず、まずは、加賀と能登との分断を図る必要があった。利家も、金沢から七尾まで距離が遠くあり、丁度中間にあたる現在の羽咋、宝達にある「能登末森城」を改築する。その後、有名な末森城の戦いが起きるわけであるが、成政は、末森城を落とすことで能登との分断を図り、その上で、金沢へ総攻撃を仕掛けるつもりであった。その時に、加賀、越中を繋ぐ街道「旧北陸道」上にある倶利伽羅峠を押さえておかなければ戦略上破綻してしまう。ゆえに、倶利伽羅城は、砦レベルながらに非常に重要な城であったことが窺える。 […]

家康に示し合わせた如く書状が | 第10章・1・豊臣からの書状 · 2023年2月19日 12:23 AM

[…] 豊臣秀頼がいる金沢城(かなざわじょう)より、使者が各地へ走った。岡山は、徳川勢力のど真ん中であり秀頼は、加藤清正、福島正則に守られ前田利長の金沢城へ入っている。使者の向った先は、徳川家康、奥州独立連合の伊達政宗、会津の上杉景勝、そして九州連合の島津義弘である。その書状には「上意」の文字が入り、以下の内容が書かれていた。・全ての諸大名は直ちに争いを中止する事。・各勢力の総帥は、直ちに加賀金沢へ参集する事。・参集時の港は、以下の通りとする。奥州独立連合   七尾湾上杉家      氷見港島津家      金沢港徳川を除いては、皆この書状内容を事前に知っている。これを見た家康は激怒した。「なめおって!!!」その数日後、タイミングを見計らったように島津家、伊達家、上杉家、前田家より一斉に書状が届いた。この四家は、事前に示し合わせてある。内容は、金沢に参集しない場合は、全てで討伐に当たるというものである。同時に届く事などからして、いかにも家康に対する当て付けであった。現在の状況から見て家康の勢力は、随一であるが完全に孤立している。全てを敵に回しては勝ち目が薄い。家康は、迷っている。 […]

第10章・3・家康の選択 | 金沢行きを決意する家康 · 2023年2月19日 12:29 AM

[…] 家康は、決して諦めた訳ではない。しかし、家康の下に次々と凶報が届く。その中に、加藤嘉明が密かに加藤清正に内通しているという情報があった。家康は、危機を感じた。<豊臣恩顧の武将が雪崩式に・・・>嘉明が清正に通じたという事は、他の豊臣恩顧の武将も通じている可能性が高い。「やはり行くしかないか」家康は、遂に金沢城へ向う決断をした。暫く沈黙が流れ、天海が一言囁き、静かに部屋を出て行った。「島津にやられましたな」戦況は不利な方向に傾いたが、そこには、「迷い」から「辛抱」に変化した、いつもの「粘りの家康」が戻っていた。 […]

和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 · 2023年2月21日 10:24 PM

[…] 一万を超える軍勢を率いて金沢城(かなざわじょう)から出陣した前田利長(まえだとしなが)。小松城(こまつじょう)の丹羽軍の情報を探りながら、まずは、松任城に入場した。七月二六日、能美の和田山城(わだやまじょう)に逗留。和田山城は、「和田山・末寺山古墳群」も存在する丘陵地「和田山」に存在した。本格的に、小松城攻めの気配を見せる前田軍。しかし、小松城攻めを主張する利長の弟「前田利政」(まえだとしまさ)と、危険性の高い小松城をおき、大聖寺攻めを優先とする高山長房(たかやまながふさ)との間に意見が割れた。「目先の小松城を先に落とすのが常套手段であろう」「わが隊のみで充分、小松を落とす」武断派の利政は強気である。「それは無理でござろう」「長重は、小松城に篭るのは見えてござる」長房も譲らない。 […]

金沢戦国物語プロローグ~前田利家と前田家系図 · 2023年2月22日 10:35 PM

[…] 前田利昌(まえだとしまさ※別名利昌)、利家親子の時代は、織田信長の家臣として尾張荒子で活躍。その後、前田利家(まえだとしいえ)は、越前府中(えちぜんふちゅう)、能登「七尾城」(ななおじょう)、能登「小丸山城」(こまるやまじょう)、そして加賀「金沢城」(かなざわじょう)へ。その後の豊臣政権における五大老五奉行制(ごたいろうごぶぎょうせい)においては、徳川家康に次ぐ五大老の地位に就くなど出世街道を突き進んだ。加賀百万石を築いた前田利家を加賀前田家初代として二代「利長」、三代「利常」と前田家系図は続く。よく利家が初代藩主との記述がみられるが、正式には、初代藩主は利長であり、利家は、「加賀藩祖」(かがはんそ)もしくは「加賀百万石の祖」(かがひゃくまんごくのそ)である。 […]

石川門★金沢戦国物語②利家、金沢城へ | 一向宗との戦いから得た真宗王国の改造 · 2023年2月25日 9:08 PM

[…] 今では、「金沢城ライトアップ」で有名な金沢屈指の観光スポットである『石川門』(いしかわもん)。重要文化財に指定されている石川門は、かつて金沢城(かなざわじょう)の搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門として機能していた。枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造であり典型的な織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)である。織豊系城郭とは、主に織田信長(おだのぶなが)から豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代に用いられた城郭の特徴で、その一つの特徴が虎口(こぐち)にある。喰違虎口(くいちがいこぐち)、桝形虎口(くいちがいこぐち)などがあるが、いずれも寄せ手が容易に城内侵入を出来ないようにする役目を持っていた。石川門は、桝形虎口であり天下名城「大阪城」(おおさかじょう)や「江戸城」(えどじょう)と同じである。利家は、信長そして秀吉から築城術、そして文化を受け継いでいた。観光客の方によく金沢城の天守閣(てんしゅかく)と勘違いされる石川門であるが、その美しさから現在における金沢城のシンボルとして間違いない。鉛瓦葺(なまりかわらぶき)、そして白亜の塗籠壁(ぬりごめかべ)、海鼠壁(なまこかべ)が魅力的であり、さらに季節毎のライトアップイベントも開催され沢山の観光客が訪れる。 […]

妙立寺(忍者寺)★③寺町寺院群と宗派の関係 | ここでも記憶を · 2023年2月25日 9:48 PM

[…] 寺町寺院群は、町区画整備とともに南方面防備の役割も兼ねていると伝わる。果たしてそうなのか?疑問が残る。百万石を誇る大大名「前田家」は、ほぼ攻められる恐れがない。南の越前「結城秀康」に関しては、徳川であることから逆らわない限り安泰である。万が一に謀反の疑いをかけられたとしても、恐らく金沢気質とも揶揄される「前田気質」からして戦いの選択肢は、ほぼないであろう。それよりは、むしろ北の浄土真宗を中心とした一向宗とも呼ばれる一揆勢力を意識したのではあるまいか。そもそも、金沢城(かなざわじょう)から見て寺町寺院群は高台にある。北から一揆勢力に攻められ、金沢城が危うい場合、金沢城より高台で地の利がある寺町寺院群を防御線とし、越前からの援軍を待つ。越前、加賀、そして能登の一揆勢力と戦いを繰り広げてきた前田利家、そして前田家であるからこそ北を意識したのではと勝手にシミュレーションしてしまうのは、自分だけか。コメント欄に、ご意見をお待ちしております。 […]

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