繁栄した1400年代、加賀一向一揆時代と鳥越弘願寺跡

繁栄したは、1400年代の加賀一向一揆時代
鳥越弘願寺(当時の弘願寺)は、1300年代から現在の津幡町笠原地区に存在していた。
北加賀における浄土真宗の拠点とも呼べる「鳥越弘願寺」(とりごえぐがんじ)を中心に、ここ一帯は小さな城砦都市として発展した。
さらに、それを防御する、鳥越城、鳥越タテヤマ砦、田屋御前山砦、鳥屋尾ノナカ砦跡などの砦が存在し、当時は、かなりの勢力を誇り、繁栄したことが容易に想像が出来る。

[弘願寺を中心とした防御線]

・鳥越城
・鳥越タテヤマ砦
・田屋御前山砦
・鳥屋尾
・ノナカ砦
・鳥屋尾シバンニャ砦

鳥越弘願寺跡

戦国期末期~織田信長軍団の加賀・能登侵攻

戦国期末期~織田信長軍団の加賀・能登侵攻
1573年(元亀4)、織田信長と越前の朝倉義景との間で争いが勃発。
結果、織田信長が朝倉家を滅ぼし北上
信長による北陸侵攻が始まった。
ここ津幡にも信長の魔の手がのびる。
当時の津幡一帯は、鳥越弘願寺を中心に真宗王国として一向宗が支配。
先手の信長配下の将「佐久間盛政」は、能登侵攻とともに弘願寺に協力を要請。
しかし、弘願寺側がそれを拒否。
怒った盛政は、火を掛け弘願寺が焼失。
この、織田軍団の加賀能登侵攻により、事実上、一揆勢が壊滅となった。
この静かな農村に、一揆勢と呼ばれた真宗王国のスモールワールドが存在していたのは、興味深い。
現在の弘願寺は、津幡町加賀爪に存在する。

鳥越の弘願寺は、現在の大国主神社とその周辺に存在した

加賀・能登、越中を結ぶ要衝「津幡の鳥越」

加賀・小松・金沢から能登へ。
加賀・小松・金沢から越中へ。
そのいずれへ向かうにも「津幡」を通過しなければならない。
特に、越中へ向かうには、現在の歴街国道となっている北国街道(旧北陸道)上の倶梨伽羅を越えなければならない。
当時は、天田峠ではなく、倶利伽羅峠が主要道として機能した。
豊臣秀吉の富山征伐、上杉謙信の能登侵攻。
数々の英雄たちが、この津幡・倶利伽羅峠を超えた。
あまりクローズアップされていないのが現実である。
それと同時に、そこに位置する鳥越を拠点とした「弘願寺」の重要性は非常に高いものと思われる。
その掘り起こしは、急務ではないだろうか?

倶利伽羅不動寺に続く倶利伽羅峠

鳥越弘願寺の周辺には、倶利迦羅不動寺津幡城など歴史スポットが数多く存在します。


2件のコメント

鳥越城跡が語る加賀一向一揆の歴史 · 2023年1月11日 10:27 PM

[…] 鳥越城跡(現在の白山市三坂町)は、二曲城(ふとげじょう)とともに加賀一向一揆国の拠点として双璧をなした山城である。築城年は、織田信長が加賀一向一揆攻めの兆しが表れた天正期と以外にも若い。もちろん、以前から砦レベルのものがあったと想定されるが、信長の北陸侵攻に伴い強化されたのではないか。北陸においても、越前の金津、小松の波佐谷、加賀の本泉寺、津幡の鳥越弘願寺など一揆王国とも呼ばれる集団が各地にあったが、ここ鳥越城が最も山深い地にあり、攻め難いちであった。一度、白山市街から、鶴来、白山比咩神社、河内村、鳥越へ訪れていただきたい。途中、大日川が流れ、二曲城を突破するとようやく、鳥越城に辿り着く。この鳥越城を攻めたのが、織田信長の軍団長「柴田勝家」である。柴田勝家は、信長の北陸侵攻の中心人物であり、越前朝倉氏の滅亡後、とにかく加賀、能登の一揆勢との戦いに明け暮れた将であった。鳥越城は、柴田勝家により陥落し、大将「鈴木出羽守」率いる鈴木一族が滅亡するも、門徒の山内衆による抵抗が続く。最後は、勝家の配下「佐久間盛政」により白山門徒は壊滅することになる。 […]

二曲城と大日川から見る白山麓門徒王国 · 2023年1月13日 11:52 PM

[…] 佐久間盛政(さくまもりまさ)は、佐久間盛次(信盛)の二男として生まれるが、織田信長の軍団長「柴田勝家」を叔父に持つ。勝家とは親子以上の関係にあり、生涯勝家を支えた。武勇誉れ高く、鬼玄蕃、または、夜叉玄蕃と称される。織田信長の北陸一向一揆との戦いには、佐久間盛政の名は欠かせない程に一揆殲滅作戦に登場する。鳥越城の戦い、尾山御坊の戦い、津幡の鳥越弘願寺の焼き討ちなどに参加。前田利家同様、一向宗の扱いを知り尽くした一人である。 […]

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