1.旧北陸道と旧北国街道の違い?

度々「旧北陸道」と「旧北国街道」が混同されることがある。
旧北陸道(きゅうほくりくどう)は、五畿七道の一つとして、機内から北陸に伸びる日本海側の主要街道である。
旧北国街道(きゅうほっこくかいどう)は、脇街道として北陸道から信州の追分に続く街道として、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)または、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)と呼ばれることもある街道であった。
そして、旧北陸道も含め「旧北国街道」と呼称する場合もある。
私個人は、石川県津幡町から富山県小矢部市に至る倶利伽羅峠を含む「旧北陸道、旧北国街道」を説明する機会が多い。
その時は、上記を踏まえながらも旧北陸道ではなく、旧北国街道の表現を採用している。
その理由としては、北陸道と表現すると北陸自動車道をイメージする方が多い為だ。
その点、北国街道と表現する事により、歴史的イメージを与える事が出来る。
しかし、それは、主に観光における説明においてのみであり、ケースバイケースである。。
本来は、戦国史においても中山道、東海道などと表現する事から、旧北陸道と表現するのが正解である。

旧北陸道案内板

2.津幡町の歴史国道

1995年(平成7)、国土交通省が進める「歴史国道」に認定された旧北陸道「歴史国道」。
石川県河北郡津幡町における歴史国道(れきしこくどう)は、竹橋から山森へ抜ける旧北陸道ルートであり、その後、倶利伽羅峠を超えると小矢部市に至る。
まず出発点は、加賀藩指定の宿駅(しゅくえき)として栄えた「竹橋」(たけのはし)から始まる。
竹の橋には、梵鐘(ぼんしょう)で有名な「教願寺」(きょうがんじ)、源平倶利伽羅合戦図屏風が保存される「倶利伽羅神社」(くりからじんじゃ)があり、山道に入ると「前坂権現」「一騎討ち跡」「龍ヶ峰城址公園」「道番人屋敷跡」「馬洗い場跡」と続く。
特におすすめは、「龍ヶ峰城址」である。
この城は、いまいち、注目度が低いが戦国期における前田利家と佐々成政が争った記録が残る城である。
津幡町は前田・佐々抗争の舞台となった地であり戦国史に興味がある方は、是非訪れてほしい。
また、竹橋から山森まで歩いて散策が出来る歴史国道は、ドラマ「水戸黄門」に登場するような雰囲気を漂わせております。
文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれた歴史国道、そして倶利伽羅不動寺といった津幡町観光スポットをお楽しみ下さい。
ただし、鈴を携帯するなど「熊」対策を忘れないようにご注意願う。

[お勧めコース]
竹橋口 ― 龍ヶ峰城 ― 不動ヶ池 ― 手向神社 ― 倶利迦羅不動寺 ― 猿ヶ馬場 源氏ヶ峰 ― 巴塚・葵塚 ― 砺波の関 ― 埴生護国八幡宮 ― 埴生口

水戸黄門、御老公様一行が歩いてきそうな雰囲気

3.数々の歴史的人物が通過した旧北陸道「歴史国道」

古代では、万葉集でも有名な「大伴家持」(おおとものやかもち)が越中守に任ぜられ越中に向かい、江戸時代には、「松尾芭蕉」(まつおばしょう)が奥の細道の旅にて東北から現在の歴史国道である旧北陸道を通り金沢へ向かった。
そして、前田・佐々抗争では、後の加賀百万石の太守「前田利家」、越中の「佐々成政」が、北陸道(北国街道)を主に戦いを繰り広げる。
極めつけは、越中の陣にて、「豊臣秀吉」が倶利伽羅峠に本陣を構えたと伝えられるが、あまり知られていない。
まだまだある。
あの上杉謙信も加賀、能登侵攻時には、この北国街道を通過した。
日本海沿いを中央から北へ向かうには、この旧北国街道を通過することが必須であった。

数々の歴史的人物が 旧北国街道を歩く

5件のコメント

秀雅上人が継承した倶利伽羅村と、等身大と伝えられる『秀雅上人像』 · 2022年11月25日 6:03 PM

[…] 倶利伽羅村復興に貢献した『秀雅上人』は、旧北国街道と呼ばれる現在の歴史国道「北陸道」における倶利伽羅峠に存在する。上人の小堂は、津幡方面から不動寺に向かうと背面となり分かりづらい。福祉バス「倶利伽羅」から100メートル程坂道を上がると、左手に子安地蔵堂(こやすじぞうどう)が見えるが、右手にある小堂が『秀雅上人像』である。説明板も老朽化し読みづらくなっているが、復旧されることを望む。 […]

加賀藩における東端(朝日)の関所「堺関所」 · 2023年1月28日 11:09 PM

[…] 朝日町の史跡には、堺関所跡のほか源平の戦いで有名な「木曽義仲(源義仲)」が「以仁王」(もちひとおう)の第一皇子「北陸宮」(ほくろくのみや)を迎え入れた「宮崎城」(富山県下新川郡朝日町城山)も楽しめる。木曽義仲は、信濃から越後を経て越中へ進軍。越中朝日の宮崎太郎の館にて「北陸宮」の元服式を行った。北陸宮による戦いの正当性「錦の御旗」を得た義仲は、北国街道を西に進み、倶利伽羅峠にて平維盛率いる平家軍と激突。その後、倶利伽羅峠の戦いに勝利した義仲は、上洛を果たし「旭将軍」(朝日将軍)の称号を得る。しかし、義仲の快進撃はここまでであった。義仲は、義仲を危険視した源頼朝の弟「源義経」に敗れこの世を去る。もし、義仲が源頼朝、義経兄弟を破り天下を取った場合、北陸宮を庇護した宮崎太郎、そして越中朝日の街はさらに栄えていたかもしれない。また、時代が違えど上杉謙信も果たせなかった上洛戦(実際の軍を率いての上洛)を見事に果たした。北国街道には、まだまだ歴史ロマンがある。 […]

木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで戦勝祈願した「埴生八幡宮」 · 2023年2月2日 12:09 PM

[…] 埴生八幡宮の境内には、社殿、源義仲像、宝物殿のほか「義仲の松」「巴の松」「鳩清水」「資料館」など見どころが盛りだくさん。石段下の広場にある「義仲の松」と「巴の松」の双方の松は、それぞれ縁の苗木を譲り受けて育てたものである。また、倶利伽羅峠の戦いの時に、源氏軍が八幡神の御使いである白い鳩の導きにより得た鳩清水(はとしみず)があり、とやまの名水に指定された。そして、私個人がよく訪れるのは、資料館である。この資料館には、倶利伽羅峠の戦いにおける説明や、シミュレーション板が展示されているほか、源平合戦に関する資料や、前田利家、佐々成政など著書が多数設置されている。特に、佐々成政関連の著書を読めるのはありがたい。石川県津幡町の倶利迦羅不動寺と共に、富山県小矢部市の埴生護国八幡宮は、旧北陸道における倶利伽羅峠観光の双璧といえよう。 […]

佐々平左衛門政元と倶利伽羅城の謎を解く · 2023年2月18日 8:55 AM

[…] 上記に記載した、越能賀三州誌における佐々と前田の争いにおいて、佐々成政が国境封鎖をしたとあるように、倶利伽羅における砦機能は非常に重要であったと考えられる。1584年(天正12)に朝日山城急襲に失敗した成政は、さらに国境強化を始める。倶利伽羅城の強化は、そのタイミングであり、佐々平左衛門と野村主水が入る。成政は、いずれ前田利家の拠点である金沢「金沢城」を落とさなければならない。流石に、百万石近い国力を持つ金沢「前田家」を真っ向から攻めるわけにはいかず、まずは、能登との分断を図る必要があった。利家も、金沢から七尾まで距離が遠くあり、丁度中間にあたる現在の羽咋、宝達に小城を改築し「能登末森城」を築く。その後、有名な末森城の戦いが起きるわけであるが、成政は、末森城を落とすことで能登との分断を図り、その上で、金沢へ総攻撃を仕掛けるつもりであったのだろう。その時に、加賀、越中を繋ぐ街道「北陸道」上にある倶利伽羅峠を押さえておかなければ戦略上破綻してしまう。ゆえに、倶利伽羅城は、砦レベルながらに非常に重要な城であったことが窺える。 […]

小松プロローグ④ | 日ノ本騒乱~北陸の関ヶ原始まる · 2023年2月23日 8:05 PM

[…] 徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍十万と、石田三成(いしだみつなり)率いる西軍十万が関ヶ原(せきがはら)に迫った。その後、有名な関ヶ原の戦いが起きるわけであるが、戦いは、関ヶ原だけに限らなかった。東北では、伊達政宗(だてまさむね)と上杉景勝(うえすぎかげかつ)が争い、九州では黒田如水(くろだじょすい)が野心を秘め、九州席捲を目論む。そして北陸では、前田利長(まえだとしなが)が中央の家康と合流するため、北国街道を南へ進撃を開始した。これが世に言う「北陸の関ヶ原」である。前田軍が中央へ向かうには、まず小松を通過しなければならない。小松城(こまつじょう)には西軍方に付いた剛将、丹羽重長(にわながしげ)が手薬煉をひいて待っている。1600年(慶長5)七月二十六日、前田軍は二万五千の大軍を率いて金沢城(かなざわじょう)を発った。松任、水島を経由し、手取川を渡り和田山を目指す。三道山の一部ともいえる和田山にある和田山城(わだやまじょう)に本陣を構えた前田軍。その報を聞き、隙を伺う丹羽軍の間で、北陸の関ヶ原が始まろうとしていた。 […]

秀雅上人が継承した倶利伽羅村と、等身大と伝えられる『秀雅上人像』 へ返信する コメントをキャンセル

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です