倶梨伽羅峠

源平合戦の中でも激戦となった倶利伽羅峠における倶梨伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)が行われた戦場。
倶利伽羅峠には、古より五畿七道の1つである「北陸道(北國街道)」が通り、西には加賀の金沢平野へ。
東には越中の砺波平野へ繋がり、本峠を通過して多数の人々が行き来した。
明治に、わずか北に、天田越(天田峠)が開通し本峠は、あまり利用されない。
しかしながら、それまでは、交通の要衝であり越中より侵入する「木曽義仲(源義仲)」軍と、加賀(津幡)を死守する「平維盛」軍が激突した源平合戦「倶梨伽羅峠の戦い」が行われたのは必然的であったといえよう。

倶利伽羅古戦場「展望台」

倶梨伽羅峠の戦い

源平合戦の中でも激戦となった倶利伽羅峠における倶梨伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)が行われた戦場。
源氏軍の大将は、木曽義仲(源義仲)。
平氏軍の大将は、平維盛。
結果、語り草とされる「火牛の計」にて源氏方が勝利する。

勝利した義仲軍は、その後、津幡北中条の王城に入場した。

倶利伽羅峠には、倶利伽羅古戦場を巡るたくさんの源平スポットがあります。

火牛の像

八重桜が咲き誇る桜の名所、 平維盛の本陣「猿ヶ馬場」

猿ヶ馬場には、平維盛率いる平家軍の本陣が置かれた。
数で優る平家軍ではあるものの、後方の備えが薄いのは気になるところである。
また、津幡町と小矢部市の境界となる「猿ヶ馬場」に「倶利伽羅県定公園」には、春になると八重桜が見事に咲き誇り、
源平合戦にあやかり、小矢部市が「源氏」、津幡町が「平家」と別れ、大綱引き合戦も繰り広げられます。

倶利伽羅の戦い「平維盛」本陣跡
倶利伽羅の戦い「平維盛」本陣跡

埴生八幡宮の幻影

火牛の計にて敗れた平家軍は、突如現れた「白装束」の幻影に惑わされ、次々と「地獄谷」と呼ばれる谷に雪崩込み混乱状態に。
一瞬にして前に流れる川、膿川(うみがわ)は赤く地で染まり地獄絵図と化す。
その「白装束」の幻影は、木曽義仲が戦勝祈願した埴生八幡宮の八幡大菩薩の力と伝えられる。

その他・周辺スポット

倶利伽羅古戦場周辺には、倶利迦羅不動寺などの史跡のほか地元野菜の直売所(三州農園☆直売所)があります。


5件のコメント

津幡の花見スポット「倶利伽羅公園」と「倶利迦羅さん八重桜まつり」 · 2022年3月2日 9:26 PM

[…] 倶利伽羅公園は、旧北陸道上の「倶利伽羅峠」にある公園である。石川県の津幡町と富山県の小矢部市の県境ということで小矢部「倶利伽羅県定公園」と混同されやすいが、津幡町に属する公園である。気になる両県の中であるが、現在は、倶梨伽羅峠の戦いに因んで開催される小矢部市と津幡町の交流「源平大綱引き合戦」にて両県の親睦が行われている。そんな倶利伽羅公園であるが沢山の八重桜が咲き誇り、津幡における「桜の名所」としても有名であると同時に、小矢部の方に行くと倶利伽羅峠古戦場など数々の史跡も存在する。また、津幡側には、手向神社、倶利迦羅不動寺があり、津幡の代表的な観光スポットとなっている。津幡の代表的な花見スポットである「倶利伽羅公園」に訪れる人には、もう一つの目的がある。倶利迦羅不動寺境内で厄除けの念仏赤餅つきが行われる「倶利迦羅さん八重桜まつり」。倶利迦羅さん八重桜まつりでは、古来より疫病の難から逃れられると言い伝えのあるつきたての念仏赤餅が参拝者に配られ、たくさんの花見客が同時に訪れる。 […]

NHK大河ドラマなどでも度々登場する『平清盛』の戦い · 2022年3月13日 6:55 PM

[…] 栄華を極める平清盛であったが、横暴な平氏に対する不満が国内に広がった。後白河法皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)が立ち上がり打倒「平清盛」を宣言。ここに「源平合戦」として後世に伝わる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が始まるのである。北陸からは、北陸宮を擁し源義仲こと「木曽義仲」が倶利伽羅峠の戦いを経て西上し、関東からは、「源頼朝」が挙兵する。実質的な源氏の大将である源頼朝が挙兵する中、1181年に平家の大将『平清盛』がこの世を去る。享年64歳であった。 […]

八重桜が咲き誇る花見の名所、小矢部「倶利伽羅県定公園」 · 2023年2月2日 6:49 PM

[…] 八重桜で有名な「倶利伽羅県定公園」であるが、猿ケ馬場の平家軍本陣跡(さるがばばのへいけほんじんあと)、火牛の像(かぎゅうのぞう)などの周辺には、隣接する観光スポットが沢山存在します。なかでも倶利伽羅古戦場は、2022年度NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも紹介された。1183年(寿永2)、打倒平氏の旗を掲げ信濃国から北陸へ兵を進めた「木曽義仲」(源義仲)と、平家軍の大将「平維盛」とが倶利伽羅にて激突する。木曽義仲(きそよしなか)は、現在の小矢部市「埴生護国八幡宮」付近から倶利伽羅峠を進んだ。一方、平維盛(たいらのこれもり)は、既に倶利伽羅峠にて迎撃態勢を敷く。その本陣が、猿ケ馬場であり、現在は「平家軍本陣跡」として残される。勝敗は、火牛の計(かぎゅうのけい)を用いた義仲が数百頭の牛の角に松明をつけて平家軍に突進。平家軍は、谷底へ落とされたいうが、その場所が丁度「地獄谷」である。戦いは、義仲の圧勝であった。あれから千年近く経った令和の時代。倶利伽羅峠の戦いは、源平の戦いにおいて最も有名な戦いとして今でも倶利伽羅県定公園と倶利伽羅古戦場に語り継がれている。 […]

順徳上皇が仮の御所とした津幡町「御門屋敷跡」 · 2023年2月4日 4:43 PM

[…] 承久の乱でも知られる第82代天皇「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)。後鳥羽天皇の幼少の頃、源氏と平氏の争い「源平合戦」が激化していた。源氏方の大将「木曽義仲」(きそよしなか)が、倶利伽羅峠の戦いにて平維盛を破ることで形勢は源氏に傾く。その後、義仲率いる源氏軍が入京することにより、京の平家軍は、西国へ逃げ去ってしまう。事もあろうに、まだ幼い第81代天皇「安徳天皇」を連れ去ると共に、三種の神器も持ち去った。三種の神器うち、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は無事に取り返すことに成功した。しかし、「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)またの名を「草薙剣」くさなぎのつるぎ)」が見つからない。そんな状況の中、第77代天皇であった後白河法皇は、消息と安否が分からないまま次天皇を決定しなければならなかった。そこで挙がったのが尊成親王(たかなりしんのう)であり、後の「後鳥羽天皇」である。後鳥羽天皇は、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として代用し即位。それ以降は、伊勢神宮から与えられた形代の剣を代用したと伝わる。草薙剣は、本体と形代のふたつある、または、ひとつは、レプリカであるなど。その真相は分からない。それから数年後、後鳥羽天皇と鎌倉幕府との間に軋轢が強まり、互いに牽制し合う状況が続いた。そして、1198年(建久9)年、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位し、自らは、院となり「後鳥羽上皇」が誕生。続いて、土御門天皇に譲位を迫り、第84代天皇「順徳天皇」(津幡町「能瀬川公園桜まつり」と「順徳天皇」 参考)を誕生させたところで「承久の乱」が勃発する。結果は、鎌倉幕府「北条氏」との戦い「承久の乱」にて敗北。敗れた後鳥羽上皇にも沙汰が下った。 […]

石川県の鳳凰殿「西之坊鳳凰殿」と「万灯会」 · 2023年2月9日 12:00 PM

[…] 津幡町の竹橋(たけのはし)にある道の駅「倶利伽羅源平の郷」(くりからげんぺいのさと)は、2000年(平成12)に歴史国道案内休憩施設として誕生した。倶利伽羅源平の郷の敷地内には、倶利伽羅を中心に津幡町の歴史、特に倶利伽羅古戦場を中心とした倶利伽羅峠の戦いなどテーマに映像、パネルを展示。中でも一番のインパクトは、倶利伽羅峠の戦いにて木曽義仲(きそよしなか)が採用したとされる戦術「火牛の計」のモニュメントである。また、倶利伽羅神社に所蔵されている「源平倶利伽羅合戦図屏風」のレプリカの展示や熊の剥製も一見の価値あり。展示されている剥製の巨大熊は、倶利伽羅峠の近く北横根(きたよこね)で捕獲されたものであるが、倶利伽羅観光するときは、くれぐれも熊、猪に注意が必要。そして、一番のお勧めは、春の花見である。津幡川に架る橋「不動橋」から見る桜は美しく、「倶利伽羅公園」「能瀬川公園桜まつり」とともに津幡の花見スポットの一つとして知られる。花見シーズンには、駐車場も込み合うことから少々歩くことになるが、指定駐車場から西之坊鳳凰殿に歩いて登るのもよい。西之坊鳳凰殿へ向かう途中の、満開の桜も美しく、鳳凰殿に到着するとさらに桜の花が待ち受ける。最後は、倶利伽羅源平の郷より脇を流れる津幡川の桜を眺めながらのソフトクリームを楽しもう。最近の花見シーズは、暖かいですから。 […]

NHK大河ドラマなどでも度々登場する『平清盛』の戦い へ返信する コメントをキャンセル

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