富山城天守閣。
そこには、失意の成政が立っている。
〈やはり、届かぬか・・・〉
丹羽長秀、池田恒興、前田利家、金森長近など。
これらは、かつて豊臣秀吉より上位であった者達である。
そして、現在は、皆すべて秀吉の下に甘んじている。
また、徳川家康、上杉景勝ですら、秀吉に対し臣従の態度を取っていた。
しかし、それが戦国の世であり、時の勢いには勝てない。
それぞれが国を持ち、お家大事が最優先される。
本来、成政も出来る事であれば、この勢いのある秀吉と事を構えるのは避けたかった。
しかし、そこは性分である。
成政の意地が、秀吉の軍門に降る事をよしとしなかった。
かつてのライバル「前田利家」との抗争を回想する事数刻。
成政はそっと呟いた。
「これが現実か・・・」
〈わしが強がっていただけか・・・〉
”諦念”
これにて佐々成政の富山城が落城する。

富山城(富山県富山市本丸)

⑥無念の剃髪!成政降伏★道心塚~成政の剃髪址(富山市安養坊)


1件のコメント

富山の役における豊臣軍の前線基地、富山「白鳥城」 · 2023年1月27日 7:15 PM

[…] 白鳥城址の一帯には、高地性集落跡(こうちせいしゅうらくあと)が見つかるなど、この地は古より富山平野を眺望できる立地であった。平安時代末期には、木曽義仲(きそよしなか)の将「今井兼平」(いまいかねひら)が陣を張ったとする記録が残る。そして戦国期には、越中富山にて勢力を誇っていた神保一族における富山城の付城として改築し、戦国末期の豊臣秀吉の富山の陣においては、富山城攻めにおける豊臣軍の本陣として登場する。今井兼平(または中原兼平)が陣を張ったとすることから、源義仲こと木曽義仲の源氏軍が富山、石動を通過し倶利伽羅峠へ向かったのであろう。戦国期においては、1520年代に衰退した神保家を復興したのが神保長職(じんぼうながもと)あり、その時に居城としたのが富山城である。富山城は、地形的に見ても神通川を西に置くことで西側に対する防御力は高い。しかし、東側には天然の要害がなく富山城としての防御機能に頼らざるをえなかった。そこで登場したのが、白鳥城(しらとりじょう)である。万が一、富山城に危機が迫った場合は、神通川を天然の要害とし詰城としての白鳥城にて防戦する。だがそれはあくまでも西側、すなわち越後勢に対しての戦略であり、東側への備えとしての機能は不十分であったといえよう。その後の戦国末期、富山城主「佐々成政」は、豊臣秀吉の富山の陣において西側からの攻撃にさらされるのであった。富山のビジネスマンと仕事をすると、よく「呉西」「呉東」と耳にする。富山では、今でも神通川をはさんで「呉西」「呉東」を大きな区切りとして営業をしているらしい。富山城は、越飛戦国物語・第5章に登場する。 […]

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