一向宗拠点の一つである吉崎(吉崎御坊)に、当然噂がもちきりとなっていた。
「朝倉を支援するのか・・・」
「仕方がなかろう」
一向宗方としては、ついこの前までは敵だった間柄である。
それもただの敵ではない。宿敵である。
しかし、朝倉家が滅びれば、次は加賀、江沼である。
「信長の軍は十万を超えるそうじゃ」
「中央の一向宗は、無残な死に方をしたそうじゃ」
村中が信長の噂でもちきりである。
無理もない話であった。
わずか数年で中央の大半を版図とかえた信長である。
朝倉家は姉川の戦い、志賀の陣ではむしろ押していた。
しかし、とどめを差す事が出来ず、追い詰めるにとどまっている。
義影は、優秀であるが優雅な国主であり、甘さが残る。
その点信長は、戦国大名の見本のような男であり、野心強く腹黒い。
信長の方が戦国乱世向きであった。
信長は約定を反故にし、元亀二年二月早速浅井攻めを行い、さらには延暦寺焼き討ちを行う。
そして、遂に朝倉家は刀根坂の戦いで大敗し、一乗谷へ敗走をはじめたのであった。

吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)

織田信長による北陸侵攻は、戦国期、揺れる越前と江沼国境 | 越前プロローグ①を参照願います

東京ー金沢間を開業した北陸新幹線は、今後、さらに金沢から敦賀に延長される。
北陸新幹線に乗って歴史調査(吉崎御坊)をお勧めします。

②越前の要衝!丸岡城★丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町)


1件のコメント

鳥越城跡が語る加賀一向一揆の歴史 · 2023年1月12日 3:33 PM

[…] 鳥越城跡(現在の白山市三坂町)は、二曲城(ふとげじょう)とともに加賀一向一揆王国の拠点として双璧をなした山城である。築城年は、織田信長が加賀一向一揆攻めの兆しが表れた天正期と以外にも若い。もちろん、以前から砦レベルのものがあったと想定されるが、信長の北陸侵攻に伴い強化されたのではないかと思われる。北陸においても、加賀江沼の一向宗「吉崎御坊」、小松の波佐谷、加賀の本泉寺、津幡の鳥越弘願寺など一揆王国とも呼ばれる集団が各地にあったが、ここ鳥越城が最も山深い地にあり、攻め難いちであった。一度、白山市街から、鶴来、白山比咩神社、河内村、鳥越へ訪れていただきたい。途中、大日川が流れ、二曲城を突破するとようやく、鳥越城に辿り着く。この鳥越城を攻めたのが、織田信長の軍団長「柴田勝家」である。柴田勝家は、信長の北陸侵攻の主力人物であり、越前朝倉氏の滅亡後、とにかく加賀、能登の一揆勢との戦いに明け暮れた将であった。鳥越城は、柴田勝家により陥落し、大将「鈴木出羽守」率いる鈴木一族が滅亡するも、門徒の山内衆による抵抗が続く。最後は、勝家の配下「佐久間盛政」により白山門徒は壊滅した。 […]

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