1.1500年中期の加賀一向宗の歴史(プロローグ①本文)

守るもの、隙あらば奪うもの。
また、それを呑み込む強大な勢力。
現在の福井県である越前と石川県である江沼、加賀は、まさにそうであった。
越前では、五代続いた朝倉家が強力支配し、江沼、加賀では「百姓の持ち足る国」、一向宗の勢力範囲となっていた。
これらが度々争い、特に永正三年(1564)、一向宗が越前乱入を行っている。(九頭竜川の戦い
荒れた幕府「室町幕府」
もはやこの幕府に力はなく、戦国大名は各々新たな領土を求め隣国に侵攻した。
僅かな時が流れ、その動きも確実に変わり始める。
国は領土支配から、統一への時代へと動いていたのであった。
武田信玄、上杉謙信、北条氏康は中央より遠く離れ上洛も容易ではない。
天下統一を狙える存在。
やはり地理的にも有利な「織田信長」が有力視されていた。
そして、その信長が北陸では第三勢力となり、
ここ越前、江沼支配に動き出したのである。

吉崎御坊(嫁おどし肉づきの面拝観所)福井県あわら市吉崎

2.石川県の加賀市「南郷城跡」

現在の石川県加賀市南郷の八幡神社に『南郷城跡』が存在した。
南郷城(なんごうじょう)は、加賀一向一揆が築いた城として戦国史に登場する。
応仁の乱時において細川氏と同盟関係にあった本願寺、すなわち加賀『南郷城』の加賀一揆勢は、反細川であった越前朝倉氏と度々争うことになったのである。
戦国史にて登場するのが、1555年(弘治元)加賀一向一揆が守る「南郷城」と、越前の朝倉宗滴(あさくらそうてき)との戦いである。
朝倉宗滴=朝倉教景(あさくら のりかげ)は、越前国守「朝倉義景」の家臣として武名を轟かせた武将として知られる。
越前の朝倉氏は、越後の上杉氏と呼応し、加賀に乱入。
わずか1日で南郷城、千足城、津葉堡さらに大聖寺城を落とす。
この戦いが暫く続き、最終的には、双方和議を結び終結した。

八幡神社の場所に存在した石川県『南郷城跡』

3.加賀南郷城と南郷「八幡神社」の由来

そして、戦国末期に登場したのが、1600年(慶長5)関ヶ原へ急ぐ「前田利長」が(実際は、中央へ)小松を通過後、南郷城を攻撃している。
加賀「大聖寺城」の城主「山口宗永」の子「山口修弘右京亮」が守る南郷城(石川県加賀市南郷町)を前田軍が攻撃。
右京亮が自刃した。
この戦いにて前田家家臣「岡島市正」が大聖寺城鐘ヶ丸で深手を負い、南郷城まで引き上げて没した。
その後、奇怪な事件が頻発したことから岡島の霊を鎮めるため八幡の宮を建て霊を鎮めた。
これが現在の南郷「八幡神社」(石川県加賀市南郷町)である。

利長家臣「岡島市正」と南郷『八幡神社 』

越前戦国物語プロローグ② | 越前(福井)の名門「朝倉家」と戦国朝倉家


2件のコメント

富山の役における白鳥城の出城、富山「安田城」と「安田城跡資料館」 · 2023年1月27日 8:36 PM

[…] 富山県の越中安田城(えっちゅうやすだじょう)は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、佐々成政の富山城牽制を目的に築城した出城である。安田城には、前田家家臣「岡島一吉」(おかじまつかよし)城将として入るが、この「岡島一吉」と後の加賀大聖寺攻めの折「南郷城跡の南郷神社」建立のきっかけとなった「岡島市正」は、同一人物かは不明である。豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、岡島一吉が指揮を執る安田城、大峪城が富山城に圧をかけた。安田城跡(富山県富山市婦中町安田)から見て取れるように、城の東側を流れる井田川から水を引き込み周囲に小規模であるが堀が築かれていた。戦国時代の戦いにおける、砦、そして出城レベルになると、かなりの労働力が必要となる。この地域の農民達の溜息が聞こえてきそうだが、おいしい凌ぎにでもなったのであろうか?もしかしたら、ちょっとした公共事業のようだったかもしれない。富山の役における、経過であるが、富山城の佐々成政が「越中白鳥城」「越中安田城」「越中大峪城」の圧力の前に戦意を喪失。しかも、東からは、越後の上杉景勝が魚津城を落とし富山城に迫ると同時に、南からは、金森長近が飛騨を制圧し越中に迫る。ここで、流石の成政も秀吉に降参。呉羽山にて剃髪し、ここに富山の役が終結となる。 […]

「前田利政」という漢(おとこ)・その後③ · 2023年2月19日 8:18 PM

[…] 前田利政の戦いといえば、「関ヶ原の戦い」における中央出兵である。小松戦国物語(こまつせんごくものがたり)でも見られるように前田家は、徳川家康(とくがわいえやす)方に味方し中央に兵を進めた。前田利長率いる一万を超える大軍団が「小松」「加賀」を進軍する。その前田軍の別動隊を務めたのが利政であり、加越能三州記、山口記になど利政が多岐にわたり登場する。利政の戦いにおける記録は数少ない。真田幸村(さなだゆきむら)と同じく、遅れてきた戦国大名であった。利長の本隊と別ルートを進軍する利政は、小松において千代城(せんだいじょう)の攻城戦、木場潟の戦いなどにおいて主力として働きを見せる。そして加賀におては、山口宗永(やまぐちむねなが)の守る大聖寺城(だいしょうじじょう)を、危険が最も伴う先陣として活躍。特に、宗永の子「山口修弘右京亮」が守る南郷城(なんごうじょう)を突破する際には、犠牲を払いながらも山口右京(やまぐちうきょう)を自害に追い込む働きを見せた。 […]

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