1.前田利政とは

前田利政(まえだとしまさ)は、前田利家(まえだとしいえ)の次男として生まれる。
長兄「前田利長」(まえだ)と共に父利家を支えるが、利政の活躍は主に前田家の金沢移封以降である。
兄の利長とは異なり、年齢差十六歳になる弟の利政の性格は戦国乱世向きであり武勇に秀でていたとされる。
豊臣秀吉から富山の役の功により加賀・能登・越中の大半を与えられた前田家は、越中国「砺波郡」を中心に利長に。
後に、能登国「七尾」を中心に利政が領し基盤を固めていく。
当時の七尾には、利家により既に小丸山城(こまるやまじょう)が存在していたが、まだまだ戦国乱世。
実際には、まだ能登七尾城(のとななおじょう)は機能していた。
小丸山城が本格的に機能したのは、1593年(文禄2)利政が能登に入部した以降ことであろう。
それと同時に、山城である能登七尾城の必要性が薄くなり廃城となる。

能登小丸山城跡

2.関ヶ原の戦いにおける武断派「利政」の活躍

前田利政の戦いといえば、「関ヶ原の戦い」における中央出兵である。
小松戦国物語(こまつせんごくものがたり)でも見られるように前田家は、徳川家康(とくがわいえやす)方に味方し中央に兵を進めた。
前田利長率いる一万を超える大軍団が「小松」「加賀」を進軍する。
その前田軍の別動隊を務めたのが利政であり、加越能三州記、山口記になど利政が多岐にわたり登場する。
利政の戦いにおける記録は数少ない。
真田幸村(さなだゆきむら)と同じく、遅れてきた戦国大名であった。
利長の本隊と別ルートを進軍する利政は、小松において千代城(せんだいじょう)の攻城戦、木場潟の戦いなどにおいて主力として働きを見せる。
そして加賀におては、山口宗永(やまぐちむねなが)の守る大聖寺城(だいしょうじじょう)を、危険が最も伴う先陣として活躍。
特に、宗永の子「山口修弘右京亮」が守る南郷城(なんごうじょう)を突破する際には、犠牲を払いながらも山口右京(やまぐちうきょう)を自害に追い込む働きを見せた。

3.その後③本文~二度目の中央出兵とその後の利政

一度目の中央出兵時における金沢返しを不服とする利政。
何故、大聖寺まで進軍しながらも金沢へ撤退したのか。
二度目の出兵要請が出るが利政は、出兵を拒んだ。
その責めにより、その後家康により所領没収の沙汰が下される。
その説として、以下が挙げられる。
・妻が西軍(石田方)に人質にとられている
・父、利家の遺言(前田家は、大坂城の秀頼を補佐する)を通したい
・本心は西軍(石田方)に加担したい
・前回の中央出兵時の無意味さに、不満を抱いた。
・西軍勝利時の保険として、前田家存続の手段
など
所領没収後、京に上り文化人としての生活を送る。
武人から文化人へ転進した利政であったが、情報収集も兼ね活躍したと思われる。
加賀百万石の「伝統文化」、「伝統工芸」。
現在の百万石文化において、最大功労者といっても過言ではないだろう。
その後、利政の子「直之」により前田土佐守家が誕生し、加賀藩主「前田利常」を支える加賀八家(かがはっか)として加賀百万石を支えた。

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4件のコメント

今江城跡★第4章・謎の退却!前田軍金沢返し · 2023年2月20日 8:31 PM

[…] 丹羽軍が奇襲した木場潟の戦い(きばがたのたたかい)にて、辛くも勝利を拾った前田軍。山口宗永の大聖寺城も落とし、越前へ侵攻する。前田利長(まえだとしなが)は迷っていた。「どうする!丹羽長重(にわながしげ)が金沢で暴れているそうではないか?」前田利政(まえだとしまさ)が答える。「ここまで来たからには、進撃を続けるべきでは」二人の意図は明らかに違いを見せる。「金沢はどうするのじゃ」「一部のみ、兵を戻すのでは如何でござろう」「なんなら、この利政が引き返そうか」利政は、木場潟での苦戦が脳裏に離れていない。当然、決着をつけたいのが武功派の血であった。利長はさらに考え込む。<家康の為に、何で儂がこの様な無駄な事を・・・>一人考える込む事数刻、利長は決断する。「引き返す!!!!」このまま敦賀、近江を抜け中央へ進出すると思われていた前田軍が、突如小松方面へ兵を引き始める。 […]

千代城跡(小松市)★第2章・北陸の関ヶ原昂揚!小松「千代城」へ前田軍動く · 2023年2月21日 10:29 PM

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和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 · 2023年2月21日 11:12 PM

[…] 一万を超える軍勢を率いて金沢城(かなざわじょう)から出陣した前田利長(まえだとしなが)。小松城(こまつじょう)の丹羽軍の情報を探りながら、まずは、松任城に入場した。七月二六日、能美の和田山城(わだやまじょう)に逗留。和田山城は、「和田山・末寺山古墳群」も存在する丘陵地「和田山」に存在した。本格的に、小松城攻めの気配を見せる前田軍。しかし、小松城攻めを主張する利長の弟「前田利政」(まえだとしまさ)と、危険性の高い小松城をおき、大聖寺攻めを優先とする高山長房(たかやまながふさ)との間に意見が割れた。「目先の小松城を先に落とすのが常套手段であろう」「わが隊のみで充分、小松を落とす」武断派の利政は強気である。「それは無理でござろう」「長重は、小松城に篭るのは見えてござる」長房も譲らない。 […]

前田土佐守家資料館★⑤伝統文化の礎~前田土佐守家の祖「前田利政」の暗躍 · 2023年2月27日 10:51 PM

[…] 前田直之(まえだなおゆき)は、前田利政(まえだとしまさ)の長男であり前田土佐守家(まえだとさのかみけ)の当主である。加賀藩主の初代は、前田利家(まえだとしいえ)ではなく幕藩体制からの「藩」によることから前田利長(まえだとしなが)であった。しかし、前田土佐守家の初代はとなると前者とは異なる。利政、直之と続く前田家分家は後に直躬(なおみ)、直方(なおただ)、直時(なおとき)、直信(なおのぶ)と土佐守を多く輩出した。土佐守とは、官職である。前田土佐守家とは、土佐守を多く輩出したことから後に呼ばれる事となった通名でり、前田土佐守家の初代は「前田利政」とも、利政改易後に大名復帰した「前田直之」とも呼ぶことが出来る。しかし、本サイトにおいては、前田土佐守家の祖「前田利政」、前田土佐守家初代「前田直之」と記載することとする。直之の父「利政」は、関ヶ原の戦い時における出兵拒否の罪を問われ改易となっていた。その後、利政の母「芳春院」(ほうしゅういん)の尽力もあり直之は、十二歳の時に加賀藩二代藩「前田利常」(まえだとしつね)の元で正式にお家を再興。後一万石に加増された事で大名復帰を果たした。大坂夏の陣は、1615年(慶長20)であり、1604年(慶長9)生まれの直之はこの時十一歳。残念ながら、直之の大坂の陣における参陣はない。しかし子の「前田直作」(まえだなおなり)は、加賀藩四代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)の「加賀八家の制」における加賀八家筆頭となり前田家を支え明治まで繁栄を続けた。 […]

和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 へ返信する コメントをキャンセル

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