小松城主「丹羽長重 」のプライド「浅井畷の戦い」

慶長5年1600年。
中央にて、関ヶ原の戦いが始まる前、金沢の前田利長は、家康の東軍に加担するために中央へ兵を進めた。
丹羽長重の小松城を素通りする形で加賀方面に兵を進めた前田軍。
木場潟(西)を通過する過程で、丹羽長重から急襲されるるも、なんとか小松を突破する。
しかし、前田軍は突然金沢へと謎の撤退を始める。
その退却時に小松の木場潟(東)における「浅井畷」(現在の浅井畷古戦場~石川県小松市大領)にて、小松城主「丹羽長重」の奇襲を受けた。
小松城主「丹羽長重」のプライドである
二万近い前田軍ではあったが、丹羽軍の執念の猛攻、また、畷と呼ばれる湿地帯が足を取られ苦戦を強いられる。
最終的には、前田家臣「長連龍」などの決死の働きにより、利長は金沢へ帰還するが、前田軍の犠牲はあまりにも大きかった。
この戦いは、「北陸の関ヶ原」と語り継がれ、九人の墓が倒れた方向を向き、当時の激戦を物語る。
「小松戦国物語 第6章・熾烈な退却戦!浅井畷の戦い」を読む

石川県指定史跡「浅井畷古戦場」石川県小松市大領

北陸の関ヶ原を物語る「浅井畷古戦場」

1600年、美濃の関ヶ原にて東軍「徳川家康」と西軍「石田三成」の主力が戦った関ヶ原の戦いは有名である。
しかし、それは主力同士の衝突であり、同時期に日本各地にて東西決戦が行われていた。
伊達政宗と最上義昭の戦い、東北の関ヶ原。
黒田官兵衛が野望を抱く事で始まった九州の関ヶ原など。
そして、ここ北陸にも前田利長と丹羽長重が争い「北陸の関ヶ原」と後世まで呼ばれた。
この浅井畷古戦場は、前田利長、丹羽長重、長連龍、そして連龍家臣九人の記録である。

浅井畷古戦場にて舞踏公演「浅井畷の戦い」が演じられる

2007年「石川県/鹿児島県地域文化交流会」主催イベント「小松戦国物語」史跡一興において、舞踏公演「浅井畷の戦い」が、浅井畷古戦場にて開催されました。

舞踏公演「浅井畷の戦い」浅井畷古戦場にて

1件のコメント

前田軍の金沢撤兵~受け継がれた前田気質・その後① · 2023年2月19日 7:19 PM

[…] 浅井畷の戦いで、辛くも勝利した前田軍。その後、前田利政(まえだとしまさ)、太田長知(おおたながとも)が小松城(こまつじょう)に詰め掛けたが、ここでも小松城を落とすことが出来なかった。利長も本隊を引き連れて、現在の梯川に隣接する佐々木町にあった佐々木付(ささきむら)付近まで駆けつける。利長の歯ぎしりが響き渡る。「長重め・・・二度までも」結局、前田家と丹羽家の決着はつかない結果となってしまった。この時既に、東西決戦東軍の総大将「徳川家康」(とくがわいえやす)が中央へ近づいている情報が入っていた。「口惜しいが金沢へ帰る」八月十日、利長は小松城攻撃中止命令を出し、金沢へ兵を引き始める。「が、一つ二つやらねば気が済まぬ」気が治まらない利長は、その後、村々を焼き払い金沢城(かなざわじょう)へ帰城する。1583年(天正11)に起きた賤ケ岳の戦い、幕末維新の日和見など、これまでの前田家の戦いを含め優柔不断さから、後に前田気質(まえだきしつ)や金沢気質(かなざわきしつ)、金沢人気質(かなざわじんきしつ)と呼ばれる様になる。 […]

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