浅井畷の戦いで、辛くも勝利した前田軍。
その後、前田利政(まえだとしまさ)、太田長知(おおたながとも)が小松城(こまつじょう)に詰め掛けたが、ここでも小松城を落とすことが出来なかった。
利長も本隊を引き連れて、現在の梯川に隣接する佐々木町にあった佐々木付(ささきむら)付近まで駆けつける。
利長の歯ぎしりが響き渡る。
「長重め・・・二度までも」
結局、前田家と丹羽家の決着はつかない結果となってしまった。
この時既に、東西決戦東軍の総大将「徳川家康」(とくがわいえやす)が中央へ近づいている情報が入っていた。
「口惜しいが金沢へ帰る」
八月十日、利長は小松城攻撃中止命令を出し、金沢へ兵を引き始める。
「が、一つ二つやらねば気が済まぬ」
気が治まらない利長は、その後、村々を焼き払い金沢城(かなざわじょう)へ帰城する。
1583年(天正11)に起きた賤ケ岳の戦い、幕末維新の日和見など、これまでの前田家の戦いを含め優柔不断さから、後に前田気質(まえだきしつ)や金沢気質(かなざわきしつ)、金沢人気質(かなざわじんきしつ)と呼ばれる様になる。

佐々木の渡し[小松市佐々木町]

■ 佐々木の渡し
梯川沿いで、最後の小松城攻めの時、 ここに利長が陣を構えたと想定される。
悔しがる利長が想像出来る。

明暗を分けた前田家と丹羽家・その後②


1件のコメント

妙立寺(忍者寺)★③寺町寺院群と宗派の関係 | ここでも記憶を · 2023年2月25日 10:42 PM

[…] 寺町寺院群は、町区画整備とともに南方面防備の役割も兼ねていると伝わる。果たしてそうなのか?疑問が残る。百万石を誇る大大名「前田家」は、ほぼ攻められる恐れがない。南の越前「結城秀康」に関しては、徳川であることから逆らわない限り安泰である。万が一に謀反の疑いをかけられたとしても、恐らく金沢気質とも揶揄される「前田気質」からして戦いの選択肢は、ほぼないであろう。それよりは、むしろ北の浄土真宗を中心とした一向宗とも呼ばれる一揆勢力を意識したのではあるまいか。そもそも、金沢城(かなざわじょう)から見て寺町寺院群は高台にある。北から一揆勢力に攻められ、金沢城が危うい場合、金沢城より高台で地の利がある寺町寺院群を防御線とし、越前からの援軍を待つ。越前、加賀、そして能登の一揆勢力と戦いを繰り広げてきた前田利家、そして前田家であるからこそ北を意識したのではと勝手にシミュレーションしてしまうのは、自分だけか。コメント欄に、ご意見をお待ちしております。 […]

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