1.前田利家と前田家系図(利昌から利常まで)

前田利昌(まえだとしまさ※別名利昌)、利家親子の時代は、織田信長の家臣として尾張荒子で活躍。
その後、前田利家(まえだとしいえ)は、越前府中(えちぜんふちゅう)、能登「七尾城(ななおじょう)、能登「小丸山城」(こまるやまじょう)、そして加賀「金沢城」(かなざわじょう)へ。
その後の豊臣政権における五大老五奉行制(ごたいろうごぶぎょうせい)においては、徳川家康に次ぐ五大老の地位に就くなど出世街道を突き進進んだ。
加賀百万石を築いた前田利家を加賀前田家初代として二代「利長」、三代「利常」と前田家系図は続く。
よく利家が初代藩主との記述がみられるが、正式には、初代藩主は利長であり、利家は、「加賀藩祖」(かがはんそ)もしくは「加賀百万石の祖」(かがひゃくまんごくのそ)である。

[前田利家を中心とした前田家の家系図]

2.前田利家、尾張荒子に生まれる。

1570年(天正3)、時は戦国末期。
当時の日本は、それぞれの大名が版図拡大に躍起し、関東、甲信越は、武田信玄(たけだしんげん)、上杉謙信(うえすぎけんしん)、北条氏康(ほうじょううじやす)、今川義元(いまがわよしもと)と天下人たる器量をかね揃えた英雄達が凌ぎを削り、中央である大阪、京都では将軍家である足利家が力を失い、三好、松永など梟雄達が権勢を振るっていた。
また、西日本では四国の長曾我元親(ちょうそかべもとちか)、中国の毛利元就(もうりもとなり)が各地を統一し、九州では大友宗麟(おおともそうりん)を筆頭に、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)そして、島津義久(しまづよしひさ)が九州三国志と語り継がれる戦いを続けている。
そして、尾張(現在の愛知県、名古屋)では天下の風雲児、織田信長(おだのぶなが)が小大名の身から天下人の野望を抱き躍動する。
その信長に仕え、尾張荒子城主となったのが槍の又左(やりのまたざ)こと、後の前田利家である。

信長の赤母衣衆として活躍した利家

3.利家、織田信長の配下として躍進

関東、甲信越戦線が大きく動く。
相甲駿三国同盟、即ち武田信玄、北条氏康、今川義元の同盟が成立。
信玄は謙信との決着を重視し、氏康は上洛に興味はなく、関東制覇が天下への道と心得る。
そして、義元は上洛を開始、西へ向う。
京への道中、そこには尾張、信長の所領が存在する。
今川軍は三万とも四万とも噂され、迎え撃つ織田軍は二千。
当然降伏するのが普通である。
しかし、信長は違った。
利家も参戦し手柄を立て侍大将に昇進。
この戦い「桶狭間の戦い」を機に、信長の勢力は一気に拡大。
中央、そして北国へ侵攻を開始する。

前田利家の金沢城

宝円寺★金沢戦国物語①「槍の又左」いざ北陸『金沢』へ | 前田利家、若き日の想い


2件のコメント

尾山神社★⑥回想・利家の想い~金沢発展と北陸新幹線 · 2023年2月24日 1:53 PM

[…] 加賀藩祖「前田利家」(まえだとしいえ)と妻の「まつ」こと「芳春院」(ほうしゅういん)を祭神とする金沢の「尾山神社」おやまじんじゃ。利家の嫡男であり初代加賀藩主「前田利長」(まえだとしなが)は、利家の死後、徳川家の目もあることから越中にある物部神社に併祀する八幡宮の「八幡神」と榊葉神明宮の「天照大神」を遷座することを名目に勧請し卯辰八幡社(うたつはちまんしゃ)を建立。そして、利家を合祀する。その後、1873年(明治6年)旧金谷御殿(かなやごでん)の跡地に新たに尾山神社を創建した。利家は、「物部氏」の末裔と称していた時期もあるというが・・最も人気があるのは、尾山神社の神門である。色ガラス(ギヤマン)がはめられ最上階は、当初は、灯台の役割も兼ねていたようだ。ビル街になるまでは、金沢港、大野湊からも見えていたと伝わる。摂社「金谷神社」には、歴代藩主が祀られ、敷地内には、若き日の前田利家騎馬像も見ることが出来る。 […]

前田土佐守家資料館★⑤伝統文化の礎~前田土佐守家の祖「前田利政」の暗躍 · 2023年2月27日 11:12 PM

[…] 前田直之(まえだなおゆき)は、前田利政(まえだとしまさ)の長男であり前田土佐守家(まえだとさのかみけ)の当主である。加賀藩主の初代は、前田利家(まえだとしいえ)ではなく幕藩体制からの「藩」によることから前田利長(まえだとしなが)であった。しかし、前田土佐守家の初代はとなると前者とは異なる。利政、直之と続く前田家分家は後に直躬(なおみ)、直方(なおただ)、直時(なおとき)、直信(なおのぶ)と土佐守を多く輩出した。土佐守とは、官職である。前田土佐守家とは、土佐守を多く輩出したことから後に呼ばれる事となった通名でり、前田土佐守家の初代は「前田利政」とも、利政改易後に大名復帰した「前田直之」を指すことも出来る。しかし、本サイトにおいては、前田土佐守家の祖「前田利政」、前田土佐守家初代「前田直之」と記載することとする。直之の父「利政」は、関ヶ原の戦い時における出兵拒否の罪を問われ改易となっていた。その後、利政の母「芳春院」(ほうしゅういん)の尽力もあり直之は、十二歳の時に加賀藩二代藩「前田利常」(まえだとしつね)の元で正式にお家を再興。後一万石に加増された事で大名復帰を果たした。大坂夏の陣は、1615年(慶長20)であり、1604年(慶長9)生まれの直之はこの時十一歳。残念ながら、直之の大坂の陣における参陣はない。しかし子の「前田直作」(まえだなおなり)は、加賀藩四代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)の「加賀八家の制」における加賀八家筆頭となり前田家を支え明治まで繁栄を続けた。 […]

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